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考え抜いた末に、自分の人生に一筋の光が差してくるなんてことは、たぶんない。私が一人でいるときに、意識せずにぼんやりと考えてしまっているようなことは、大方、私の精神が剥き出しになるのを避けるようにするために作り出された防御壁のようなもので、その中にいる限り、考え方を変えることも行動パターンを変えることもない。それはおそらく私だけのことではない。皆、生きている間に知らず知らずの内に作り上げた自分の壁からなるべく外に出ないようにしていて、そして、いつしか自分が壁の中に入っていることさえ忘れて死んでいくのだ。「本当にこれで良かったのだろうか」という気持ちと、「いや、こうするしかなかったのだ」という気持ちと、その両方の間で揺れながら、なんとか自分の人生を納得しようとし続けていく。

私には、コミュニケーションが得意だとされている人たちもまた、何かの壁の中に引きこもっているように見えるときがある。他者を自分の想像の及ぶ範囲で勝手に解釈することで、自分の壁が壊れることを恐れている。相手の壁を壊すことはあっても、自分の壁が壊れることはないと思っている。自分を守るために作り上げた壁によって最も苦しんでいるのは自分なのに、それを必死で守るような行動を無意識の内に選択してしまっている。自分で壁を壊すことができない。

 

ゆったりと生きていくことはできないものだろうか、と思う。生きていくためには働かなければならない。働けないのなら心療内科に通わなければならない。と、それ以外の思考回路はどこかに存在していないものだろうかと思う。誰も、そちらから率先して自分の壁を取り払ってくれる人はいない。私は、自分が他人と話すことが苦手なのか得意なのかよくわからないけれど、自分の壁がそれほど確固たるものでないためか、どのくらいの熱量で他人と話すのが適切なのか、よくわからないときがある。話してはいけないことと、話してもいいことの区別があまりつかない。例えば初対面の人とでも「いやあなんで生きているんでしょうかね」なんて話ができそうな気がしてしまう。

そういえば、昼過ぎに起きてきた祖父が、「なんで生きているのかわからない、ただ死ぬのを待っているかのようだ」とつぶやきながら、さっき、リビングに降りてきた。部屋掃除を手伝いに来た叔母とワイドショーを観ている祖母は、そんなこと言われても困ると言わんばかりに、「もっと楽しいことを考えて生きたらいいのに」とあっけらかんと話す。私には、その場のいる全ての人間が、壁に入っているように見えた。本当に問うべきことを問わず、本当に感じていることを感じていないふりをして、金正男が暗殺されたことだとか、どこかの高校生がいじめを苦に自殺したことだとかの話をしながら、それなりに楽しく、それなりに穏やかに場をやり過ごす。私には何が正解なのかわからない。ただ誰もが自分の壁を破壊されることを恐れ、そして、そのことによって生きているということの実感から遠ざかっているような気がした。

 

祖母と話をする。おもしろいと思ったのは、80を過ぎても、90を過ぎても、一人になったときに思い出すのは子どもの頃の記憶ばかりだということだった。やはりそうかと思った。認知症になり、いま何をしようとしていたのかを忘れ、ときどき「死にたい」とさえ漏らす祖父も、食事をしながら祖母にぽつりと話をするのは、子どもの頃の辛い境遇についてだと言う。祖父は、戦後の混乱した時代状況の中を、食うために生き、生きるために耐え、そして最終的には組織の頂点まで這い上がった男だった。私と話が食い違うのは、それは仕方がないことだと思う。昨夜「これからどうしていくつもりなんだ」と、祖父は私に説教を食らわしたけれど、私もまた私で自分でもよくわからない説明をしてしまったように思う。でも、これからどうやって生きていけばいいのかなんてわかるはずないじゃないか。私も祖父も壁の中にいた。

終始噛み合わない議論の果てに、私は、捨て台詞のように「おれだって、死のうと思ったことくらい何度もあるよ」と、祖父に言った。祖父は何も言わずのそのそと部屋を立ち去った。働いていようが働いてなかろうが、私が、私たちが話すべきことはもっと本質的なことなのではないだろうかと思った。そう思うのは私がまだ若いからだろうか。しかし、金を稼いでさえいれば、どんな生き方をしていても良いと言うのだろうか。けれどそう問うことは許されない。そこまで言うなら自分で寝床を確保し、自分で食事を用意し、自分で必要なものを全て手に入れなければならない、と、そう言われるのだろうから。

 

可能な限り繊細に世界を感じ取ろうとすること。絶対に分かり合えないはずの他者に寄り添い、その声に耳をすませること。金…。金は、ほしい。金はほしいけれど、でも本当にほしいのはそれだけじゃない。そう思うのは私がまだ未熟だからなのだろうか。

〈更新中〉

自分の人生を語ること

低賃金の仕事で生活することや、インフォーマルな仕方で紹介されることが多い職をそもそもみつけることは、家族や家族のように付き合う仲間がいない場合、途端に難しくなるからである。

家族との関係が強いことは、たしかに悪いことではない。しかし一方で家族に恵まれていない人もおり、また家族に依存せざるをえない生活が逆に不幸な争いを生むこともある。


だとすれば、「家族」との関係を補う、または代替する制度やコミュニティをいかに作り出していくかが、流動化した労働環境では鍵になるといえよう。親の家を出て暮らすための低廉な公共住宅、より利用しやすい育児や介護サービス、または趣味を介した幅広い付き合いなど、家族の枠を離れた制度や関係性の土台が充実して初めて、転職や起業も綱渡りではなくなるのである。

地方都市の「非正規雇用」急増と格差拡大〜安定を望むことはできるか(貞包 英之) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)

さっき読んだ記事である。私がどうして働くことに上手く乗り出せないのか、どうして経済的な自立がとても困難なことのように感じられるのか、その、世の中的な事情がよくわかる記事だった。情報は力だ。世の中を正確に把握し、変えるべき所は変えようとする心が、前に進んでいこうとする自分自身を支えてくれる。

さて。私も今更こんなことは言いたくないのだけれど、父のことについて書く。一昨日の出来事もあり、私は自分が未だに父を激しく憎んでいるということを認めないわけにはいられなくなった。現実の私を直視しようとせず、いつまでも亡くなった兄や母のことばかりを考えて悲観に暮れる父。他人を批判するばかりで、自分自身の内面を決して見つめようとしない父。一人になると激しく不安に駆られるくせに、私の前では「ちゃんとした大人」を演じて高圧的な態度を崩そうとしない父。感情に任せて私を侮辱し、時が経つと一転してすがるように甘えた謝罪の言葉をかけてくる父。話すにつれ、次第に眉をひそめ、声を荒げ、感情のコントロールを見失い、私の言葉を受け入れず、冷静に会話を運んでいくことができない父。私は昨日、自分の人生をかけて真正面から父と向き合おうと試みたのだが、父によってそれは完全に裏切られてしまった。目の前にいる私を頑として受け入れようとしない父の未熟さを、私はありありと感じてしまった。父の前に私が立つと、父にとって私は話し合いの余地のない単なる異常者になってしまうようだった。私は虚しかった。一人の人間としてもう関わるに値しないと思った。私は、化膿して爛れた自分の内面を切り開き、現実の他者へ向けてつまびらかにしていくことを恐れたりしない。それをことごとく恐れているのが、父だった。

一昨日、新発田ジャスコのラーメン屋で、私は泣いた。車の運転中、また些細なことで口論になると、いつものように父は「俺たちはもう一緒にいちゃダメなんだって」と繰り返した。父は「変わりたくない」と、私の前で宣言しているようだった。父が私について語ることは、今ここに生きている私には、何の関わりもないことばかりだった。父はまたいつものように眉をひそめ、気色の悪い目付きをした。口調はどんどんヒートアップする。私は「おれの目を見て話せよ」と強い口調で父に迫った。そして父の話を聞きながら、その虚しさに思わず泣いた。父は困惑しながら「お前は何をそんなに恐れているのか」と尋ねた。私は「お父さんに怒られることだよ」と呆れながら言った。父は「そうか」と言って、ため息をついた。言葉の節々から、私と本気で向き合おうとしていないことが、伝わってきた。私は虚しくなって、家を出た。人をこんなにもはっきりと見損なったのは、初めてだった。

私は2歳の頃から新潟県新発田市に育った。幼少期に兄と母を亡くし、祖父母の家の二階、六畳二間の部屋に父と姉と私で暮らしていた。私は生活の至る所に自分の家庭環境の不自然な点を感じていた。職場の愚痴を延々と祖母に語り続ける父。そんな父を冷たい視線で見つめている祖父。祖父がその場を離れると途端に陰口を叩き始める父と祖母。祖父と一緒にいると表情がこわばる祖母。祖父や祖母や父の、私と姉に対する扱いの違い。祖父は私に優しく、姉には厳しかった。祖母もまた私に甘く、姉にはぎこちなかった。父は私に素っ気なく、姉に優しかった。私と姉はときどき二階の隅で、それぞれが家族に対して感じる違和感をこっそりと話し合っていた。子どもだった私には、他にどうすることもできなかった。

学校で、私は優等生だった。それを祖父は嬉しがり、家族の中で私だけは祖父に気に入られていた。私は子どもの頃、祖父によく懐いていた。しかし同居している父と祖母と姉の誰もが祖父に嫌われ、祖父を嫌っているらしいことに勘付くと、私は子ども心に自分が祖父と仲良くすることが、家庭内において自分の身を危うくするのではないかと思うようになった。彼らにならって、私は祖父との距離を置くようになった。祖父が私の頭を撫でたあるとき、私はそれを手で振り払った。拒否された祖父は激昂した。私はそうなるとわかっていた。たしかに祖父は他の誰もが言うようにヘンだった。思い出せばそれまでも、私に対する祖父の態度には気味の悪いものがあるような気がした。姉を女性だからと言って見下していたこと。カタカナすら分からないのかと、まだ子どもであるはずの私にキレたこと。ある日、祖父が私の長袖の中に手を入れて「こうすると温かくなるぞ」と私の腕をさすられたことがあったけれど、子どもながらに祖父との身体接触に対してなんとも言えない嫌悪感を抱いたこともあった。祖父は怪物のように扱われ、そして現に怪物だった。家の主でありながら、他の誰からも冷遇されていた。

祖母は、家庭の中でクッションの役割をしていた。自分の意見を主張せず、祖父からの暴言を吸収し、父からの愚痴を吸収し、親族からの相談を吸収した。祖母と私は二人きりで話すことが最も多かった。私は祖母からさまざまな話を聞いた。暴言を浴びせかけられながらも、祖父の父(祖母からすれば義父)を介護した過去。大家族なのに末っ子だった祖母だけが母を介護した過去。幼い頃に父を亡くしたこと。母を大切に思っていたこと。私だからこそ話せたと、そう言ってくれたこともあった。若かりし祖母の淡い恋。失恋からの祖父との出会い。当初からずっと夫婦仲が良くなかった最悪の結婚生活。そしてハキハキした叔母と、ウジウジした父が産まれた。父が女に、叔母が男に産まれれば良かったのに、と、祖母は今でも私によく言った。私には、祖父と祖母と父と叔母の家庭のことは知る由もないけれど、わずかに知っていることは、全て祖母から聞いたことだった。

父とは幼少期から今に至るまでほとんど血の通った会話をしたことがない。小学生の頃、合気道を習っている父に技をかけられて、腕を痛めたことがあった。私は恐怖を感じて、それを祖母にチクった。姉と喧嘩し、私は姉に何かを投げ付けて怪我をさせたあるときには、父は事情を聞きもしないで私を怒鳴りつけた。その時にはおぼろげだが、首を絞められたような記憶もある。父はずっと短気だった。ショッピングモールへ行くと「家族連れを見ると、死んだ母や兄のことを思い出すから…」と言って、家族で外出することを控えがちだった。まれに外出したにときでも、自分の思うようにいかないことがあるとキレて、私と姉を置いて帰って行ったこともあった。父と一緒にいて楽しいと感じた思い出はほとんどない。私が優等生だったことも、それほど好ましくは思っていなかったようだ。精神的に傾き始めていた高校生の頃、私の生活が荒れているにも関わらず学業成績は下がっていないことを、父が不思議そうに祖母に話していたのを私は聞いていた。父は人によって態度を変える。私に関することを祖母や姉の前で話し、姉に関することを祖母や私の前で話した。他人と正面から目を合わせて腹を割った話をすることができない。父にとって祖母だけが心の支えだった。祖母は父を甘やかした。甘やかしてきたと、私によく話した。父も祖父も祖母も人によって話すことや態度を変えた。私にはそれが理解できなかった。

高校生の頃から、私に対して父はよく「怠惰」「自堕落」という言葉を使って責め立てるようになった。父に対して私の気持ちが受け止められることは一度たりともなかった。子どもの頃の私の夢は警察官だった。父と祖父が警察官だったからだ。しかし姉は、そういう風に親に認められようと振る舞うのは好きじゃないと、私に言った。私は自分を恥じた。私は父にずっと認められたいと思っていたのだった。将来について悩む私に父が何か助言を言えば、私は「ああそうかもしれない」と思ってそれに従った。様々な局面で、私は祖父や祖母や父の期待に応えようと思っては、失敗してきた。自分の意志で、自分の考えで決めていないのだから、当然だ。私は家族に繊細すぎるとよく言われる。違う。繊細でなければ生きられなかったのだ。私と姉以外の大人たちがみな鈍感すぎたのだ。自分の中の闇を見ようとせず、他人を変えることばかりを求めて、根本的な解決を先送りにし続けてきた。私はそれが不満だった。

祖父と父は亡くなった母方の祖父母(本間家)と折り合いが悪く、その点だけにおいて意見が一致していた。祖母もまた祖父と父に同調して本間家を嫌った。祖母はいつも私の味方をしてくれたけれど、しかし誰の味方でもしたのだった。私と姉は、夏になると母方の祖父母の家へ遊びに行った。しかし家に帰るとなぜか祖父と父の機嫌が悪い。あるとき、帰ってきた私たちは祖父に呼び出されて「お前は本間彰人なのか稲村彰人なのか、どっちだ!」と激昂されたことがあった。意味がわからなかった。祖父と父の論理では「おれたちは孫と一緒に生活して負担があるのに、あいつらは孫と遊ぶためだけに来る。媚びるために金も与える。孫もあいつらに懐くだろうが、それは都合が良すぎる」というようなことだった。たしかに本間家では、稲村家の悪口のようなものも聞いたことがある。しかしそれは概ね当たっていた。異常に短気な祖父や父の性格がそうだ。けれども本間家の祖父もまた性格が荒っぽかった。事情は詳しく知らないが、要は短気な大人の男たちが喧嘩して気まずくなっているというだけの事だった。過去にケリをつけるため、成人してから一度、私は一人で約20年ぶりに彼らの家を訪問しに行ったことがある。母方の祖父は認知症になっていた。私のことは覚えていなかった。母方の祖母は病気で顔が黄色くなっていた。最初、彼らは私に気が付かなかったけれど、祖母が私を思い出してからは「こうして生きている内に会えるなんて嬉しい」と、そう懐かしげに言われると共に、また、稲村家の悪口を聞くこととなった。私は反論した。育ってきた稲村家も、そして生き別れのようになった本間家も、どちらが悪くどちらが良いということはない。私たちは何も知らなかった。つまらない大人の事情に子どもを巻き込んでほしくなかった、とそう言った。私は連絡先を置いて立ち去った。あれからずっと音沙汰はない。昨日、祖母に聞いた限りでは、去年の秋頃、彼女は亡くなったらしい。思い出せば思い出すほど、私は子どもらしくいられない子ども時代を過ごしてきてしまったのだな、と思う。しかし、私は今まで非があるはずの父や祖父や祖母を、真正面から恨むことさえできなかった。深く話をしようとすると全てが母の死や兄の死のせいにされてしまった。現に大変だったのだろう。苦しかったのだろう。しかし、それは私には分からない。そしてだからといってどうして私が苦しまなければならないのだろう。

私の人生には、私が物心つく前に起きた母の死と兄の死が、いつも影のようにつきまとっていた。私は母を知らない。兄を知らない。しかし祖父も父も祖母も姉も、彼らに対して何らかの悲劇的な記憶があった。母や兄について、私は祖母からよく話をきいた。乳がんに侵された母が祖母に「私、助かりますよね」と尋ねると、もう手遅れかもしれないと思いながらも祖母は「絶対に助かるよ」と答えるしかなかったのだという。私が生まれる前は父も母方の祖父母と仲良くしており、時期的に母の死と兄の死が重なったことで、家の中は激しく混乱していたそうだ。生前の母は厳しく、兄は活発だった。しかし私はそれを知らない。

私は父に自分の悩みについて話をすると、最終的にはいつも亡くなった母や兄の話にすり替えられて、私は父を慰めることしかできなくなった。初めて子どもを持った父は兄の扱い方が分からず殴ってしまったこともあったらしい。兄は父に懐かなかった。兄は近所の不良とつるむようになった。ある日、兄は不良と不良の親とともに川へ出掛けた。そして、溺れて亡くなった。父は不良の親を憎んでいた。しかしそもそも私は兄を知らない。父の悲しみも、その後の家族の苦労も知らない。父からはよく話を聞かされた。いかに大変だったか。いかに苦しかったか。子どもを育てるためには働かなければならない。金を稼がなければならない。ある日、父に尋ねたことがある。そんなことを言っても残された子どもたちの成長は楽しみでしょう、と。亡くなった兄や母だけでなく、私たちも愛していたのでしょう、と。そう子どもの私が尋ねたのだった。しかし父は答えなかった。答えられなかったのだと思う。私たちは、悲しみに暮れる父たちにとって、負担だった。そうとしか感じられなかった。

私には、父や祖母や祖父に気を遣って言えなかっただけで、本当は思ってきたことや感じてきたことが山のようにある。しかし、それは誰にも言えなかった。誰にも言えないことが、私には多すぎた。今、子どもの頃の自分を呼び覚まし、そして、もう一度その自分を生き始めようとすると、どうしても家族の問題にぶつかってしまう。私は自分がおかしいとは思わない。何事もなかったかのように、全てを弥縫策で包み隠そうとする家族の方がおかしいと思う。彼らにとってはそれでよくても、私にとってはそれでよくなかった。他者と継続的な信頼関係を築いていける力を、たとえ誰かに否定されても自分の意思を貫き通していける力を、物理的に最も近くにいた、「私のことを心配している」人たちの手によって奪われてきた。彼らは私の何を知ったつもりでいたのだろう。

 

と、長々と書いてきたが、私はまだまだ止まるつもりはない。私は一度、自分の中に巣食っている毒を全て出し切る覚悟でいる。それまでは止まれない。

あなたは「正しい親」をイメージできますか - シロクマの屑籠

そこへ、今の私を少し立ち止まらせてくれるような記事が流れてきたので、話は軽く逸れるが添付しておく。俗流毒親論に対する批判である。たしかにいずれ落ち着くところに落ち着くときには、こういう論理になるだろう。しかし結論を急いではならない。表面的な解決を目指してはならない。徹底的な対立があって初めて根本的な解決に至る。私は子の論理を貫き通して徹底的にぶつかっていく。

私は親に正しさを求めていない。むしろ「正しさ」にがんじがらめにされて正論を振りかざして来る父や祖父の存在が苦しくて仕方なかった。彼らの論理を内面化していた時は自罰的になっていたけれど、私は私の論理を生きるべきであり、それは場合によっては父の論理とぶつかるということだ。私は、他でもない私の人生を生きている。たとえ自分の人生を語ることで父たちの傷を掘り起こし、そして過去の悲しみや苦しみを思い出させたとしても、それはもう仕方がないことなのだ。私は私の気持ちを語る。私は私だ。 

 

今になって私は、どうして自分が世間で言う所の引きこもりになったのか、その理由をなんとなく理解することができる。私は、子どもの頃からずっと感じ続けてきた違和感を誰にも口に出すことができなかった。そしてそのことが他人と信頼関係を築いていくときに大きな障害になっていた。友人と遊んでも、心療内科で薬をもらっても、いつも胸の隅で虚しさを感じ続けていたのは、ずっと私が私自身の人生を語ることができなかったからだ。自分さえ自分の気持ちがどこにあるのか分からず、他者に向かってどんな顔をしたら良いのか分からなかったからだ。私は、あえて、ずっと誰にも言えなかったことを、誰にも読める場所に書く。そうすることによって自分を救う。この文章をここまで読んだ人はどれほどいるだろう。そして、それはどこに暮らし、どんな人生の物語を生きてきた人なのだろう。しかしこれを読む人が誰であれ、私の目の前に立つ人が誰であれ、私にとっては自分の気持ちや、自分の人生に対する解釈を更新していくことの方がずっと大切だ。私は自分の気持ちしか分からない。自分の人生しか分からない。

 

私は自分の人生がうまくいかないことを他者のせいにしているという意味で未熟だ。経済的に依存しているという意味でも、生活面で依存しているという意味でも未熟だ。もう24歳にもなろうというのに、と、何度批判され、何度馬鹿にされてきたことだろう。しかし父は、俺にもっと金があれば(私を一生面倒見られるのに)、と祖母に漏らしたという。そうではないはずだ。祖父も父も祖母も、本当の意味で私の自立なんて望んでいない。批判できる対象を、自分の孤独から目を逸らさせてくれる存在を求めている。私が変わらなければ、誰も変わらない。だから私は家族から離れたかった。地元を捨て、自分の心にだけ従って生きていきたいと思った。しかし戻ってきてしまった。

〈更新中〉

 

祖父母の家

昨夜、私と父との間に未だかつてないほどはっきりとした断絶があって、私は、もうこれ以上父と同じ屋根の下で一緒に暮らしていくのは本当に不可能なのだということを完全に悟るに至った。全てが不毛だった。あまりにもクソだと思った。

漫画喫茶で一夜を過ごした後、行き場をなくした私は幼少期から高校卒業まで住んでいた祖父母の家を訪ねることにした。しばらくしていると、そこに常日頃から私の現状を心配しているらしい叔母がやって来て、叔母の仕切りで、私と祖母と祖父とを巻き込んだ大規模な家族会議が開かれた。そして、話し合いの結果、次の住処が決まるまでの間、私は祖父母の家に住むことに決まった。私は、自分がどうしたら良いのかわからない。今までの全てを断ち切りたいと思い、やってきていたはずだったのに、またここに戻ってしまった。私は自分の人生をやり直していけるのだろうか。わからない。

眠いからなのか、疲れているからなのか、数日前にショックな出来事があったからなのか、それとも父と断交したからなのか、夕方、気分が沈んで、もうどうしようもないような気持ちになっていた。久しぶりに祖母と祖父と私で夕食を食べた。高校生の頃、父が仕事でいないときなどはこのメンツでよくテーブルを囲んだものだったが、今、こうして三人でご飯を食べるのはもう5、6年ぶりのことだった。祖母が作った天ぷらを食べながら、私はなぜか涙が滲んできて、思わず弱音を吐いた。どうしてなのかわからないけれど、私には自分で働いて自分で金を稼いで自分で生活していくことが、どうしても困難なことのように思える、と。祖母とはいろいろな話をした。久しぶりの祖母は昔と変わらないお茶目な祖母だった。

祖父は、私が今朝話したときには目も合わせず「24にもなって働かないなんて…」から始まる一連の至極もっともな正論を父と同じように浴びせかけてきて、それが自分にはまたとても辛かったのだけれど、最終的には「居るだけだったらいつまで居てもよいだろう」と言ってもらえた。認知症や加齢が進んでいるということもあろうか、以前よりもずっと自信がなさそうで、表情も柔和になっているような気がする。昔だったら考えられないことだ。想像の祖父は怪物のようだったが、現実の祖父となら和やかな話ができた。祖父と笑い合える日が来るとは思わなかった。

〈更新中〉

空虚さ

私は、自分の内側に渦巻いているどろどろした感情をとにかくどこかに吐き出さなければやっていられないときがある。ふと気付いてしまったことや、気になってしまったこと、目に付いてしまったこと。少しでも違和感を感じたら、私はそれを言葉にしないではいられない。考えることが好き、というような悠長な話ではなく、それを言葉にしなければ、崩れかかっている自分を自分の力で修復し、支えることができないのだ。

本来であれば、私がここに書いているようなことは、自分の内側に閉じ込めたままにして漏らさず、一人で消化して何事もなかったかのように済ますべきものなのかもしれない。そうでなくても、個人的に信頼できる友人や恋人などに話を聞いてもらったり、日記やメモ帳などにひっそりとしたためたりして、少なくとも不特定多数の人の目に触れるようなところには、思っていることをそのままぶちまけるべきでないのかもしれない。しかし、私にはそれができない。たとえ、この人は常識がなくて危険な人かもしれないとか、屁理屈ばかり並べ立てて全く憐れな人だと思われたとしても、私には自分の思っていることを、なるべく誤魔化さずに言葉にしたいという衝動がある。そしてそれはブログだけでなく対面であっても変わらない。

思っていることを言わないで、どうして他人と関係が築けるのだろうか。私はもう表面的なノリだけを合わせる会話や、当たり障りのない話題ばかりでいつまでも核心に触れないやりとりに、心底うんざりしているのだ。相手を傷付けないように注意深く気を遣いながら、時々、ガス抜きをするようにそこにいない誰かの陰口を叩いて、互いが同類であることを確かめ合う。そんなことをして何になるんだろうか。一人でいられない寂しさは、物理的に同じ空間を共有したからといって、必ずしも慰められるものではないはずだ。少なくとも、今までだってずっとそうだったじゃないか。同級生と話をしても、恋人と話をしても、家族と話をしても。

いつしか私は、相手が共感してくれるかどうかに関わらず、とにかく自分の心の中にあることだけを言葉にしたいと思うようになった。そうすることができるようになりたいと思った。それは、そうしなければ、生きていくということの空虚さに耐えられなかったからかもしれない。どうして勉強しなければならないのか。どうして働かなければならないのか。みんながそうしているから、とか、そうしないと世の中から置いてけぼりにされるから、とか、社会に適応することばかり考えて、誰もが子どもの頃には当然湧き上がってきていたはずの疑問を誤魔化してしまうくらいなら、なんとか自分なりに言葉にして、生きているということを納得したいと思った。疑問に思うことさえ許されないなんて、そんなの寂しすぎると思った。

私は他人と議論することが好きだ。私から見えている世界があまりにも空虚だから、他の人からは世界がどのように見えているのかを知りたいという気持ちがあるのだと思う。口喧嘩をすることもそれほど嫌いではない。苦笑いや愛想笑いをしている内にぼんやりと時間が過ぎてしまうくらいなら、今までの人生で培ってきた世界観を互いに破壊し合うような、そんな劇的な場面を心のどこかで求めている。私は、自分というフィルターを通して見ることのできる世界が、多くの場合それほど幸福なものには感じられないから、それを破壊してくれるような誰かや何かを知らず知らずに求めてしまうのだ。それはあまり良いことではないのかもしれない。

私は、本当は、楽しいという気持ちが分からないのかもしれない。ある人に、私は楽しい人と一緒にいたいと言われたことがあったけれど、私にはその言葉が信じられなかった。楽しいという気持ちはそれほど確固たるものなのだろうか。相手が本当は何を考えているのかという疑念や、私の人生の選択はこれで間違っていなかったのだろうかという不安を、何もなかったかのように消し飛ばしてしまえるほど激しい感情なのだろうか。私も私で異常だと思う。本当なら、何も考えずに生きていければそれが一番いい。でも私はどうしても考えてしまう。現実の空虚さに耐えられず、それを抽象的な何かで補おうとしてしまうから、だから私にはもうそうやって生きていくしか道はない。少なくとも今の私には、目の前の現実が全てであるかのように生きていくことはできない。

近況

2月になってから、「運転の練習」という名目で、車で父とよく出掛けるようになった。免許を取得した三年ほど前からペーパードライバーで、かつ、当初から運転すること自体に恐怖心が強かったので、練習しなければとてもまともに運転できそうになかったのだ。付き添いとして父が助手席に乗る。四日目になる一昨日はついに交通量の多い新潟市内まで出掛けることができた。初日は地元の商店街を通るだけでも一苦労だったから、確実に成長を感じる。

同居している父と、一ヶ月に一度は必ず口論になる。先月末も「本気でちゃんとしろ」と怒鳴られたが、私も私で相変わらずそれをことごとく理屈で打ち返して、最終的には「今年4月には完全に経済的に自立する」ということに合意した。今年四月以降、父は私への仕送りを完全に断つと約束したので、いよいよ私は食いっぱぐれることになると思いきや、なんだかんだ家にはいさせてもらえるし、飯は食わせてもらえるし、というところでどうなることかわからない。口論の最中、父はヒートアップしているので、「どうしてこんな風になってしまったのか」だの「お前が心配で心配で仕方がない」だの「理屈っぽい口調が気に食わない」だの、怒りに任せて散々なことを浴びせかけてくるのだけれど、一段落すると穏やかになって、(私が食べたいと頼んだわけでもないのに)料理を作ってくれたり(私が欲しいと頼んだわけでもないのに)車を買い与えようとしてくれたりする。たぶん私たちはもう同じ空間を共有してはいけないのだろう。私も変わらなければ、父も変わらない。うまくいかないものだ。

と、そんなことは私も最初からわかっていた訳で、私だっていい加減そろそろお金を貯めて家を出なければと思っていたのだけれど、12月1月とまた何もせずにのんびり過ごしてしまった。前半はもがいていたけれど、後半は完全に惰性だった。日記を書くヒマがないほどのんびりしていた。地元にいると、車がなければ働けず、働けなければ金がなく、金がなければ車が買えない、というジレンマを引き受けなければならないので非常にツラいものがある。最寄り駅までも遠いため、働くには家から徒歩で通える距離でバイトを探すか(ほとんどないけど)、リゾートバイトなりで住み込みで働くしか方法がない。近所で働くのは、知り合いに出くわすと激しく気まずいので気が進まない。じゃあリゾートバイトかなあと何日かサイトを検索していたものの応募要項のテンションが全般的に高すぎて自信を喪失した。そんなときはまず生きる自信を取り戻そうと、絵を描いたりしながら自己肯定感を自家培養していたのだけど、そんなことをしている内に時間が過ぎた。そんな感じの1月だった。

運転の練習をしながらだと、父ともそれなりに和やかな話ができる。2月に入って、だんだん父とも普通に話ができるようになってきた。今のところだが。父の話によると、近頃、祖父の様子があまり良くないらしい。表情はげっそりと暗く、口を開けば「いっそ死んでしまいたい」とつぶやく有り様だと言う。それを聞いて私は、そうか、と思った。そうは言っても祖父は最初からずっとヘンだったではないか。そういう話は正直もう聞きたくないなと思った。だいたい部屋の中に閉じこもり、他人と話をすることもなく、テレビを見るか酒を呑むかしか楽しみのない日々を送っていれば誰でも死にたくなるだろう。しかし私含め家族の中の誰も本気で祖父に対して優しい言葉をかける気のある人はいない。祖父はずっと他人と穏やかに心を通わすことが全くと言っていいほどできない人間だった。いつキレるかわからないので、祖父がリビングにいるだけで誰も落ち着いて飯を食べることさえできないほどだった。そして家族もまたそんな祖父を邪険に扱ってきた。明らかに不健全な状況がずっと保存されてきた。18まで同居していたから私にだってそれなりに分かる。祖父と祖母と父と、もう何十年もこじれ続けてきた問題を今さら家庭内だけで処理するなんて不可能に決まっている。本質的な解決ができないならこのままソフトランディングさせるしかない。私と父との間には昔から葛藤があって、それは今でもまだ続いているけれど、それよりも長くて深い葛藤が父と祖父との間にはあり続けてきた。しかしそれは私には何の関係もない。みんな病んでいるなあ、と思った。私がなんとかしなければと思っていた時期もあったけれど、私にできることは何もない。ただ自分で自分の精神を健やかに保つのみだ。そもそも私だって問題だらけなのだから。

そんな折、いつもよくしてくれているK編集者からのお誘いで「とある村に住まないか」との打診があった。新潟市の外れにある自然豊かな小さな村の、家賃2万円の一軒家。近くには温泉もあって、バイトしようと思えば求人はあると言う。どうなるかわからないけれど、面白そうな話だった。ちょうど家を出ることを考えていた時期だったから尚更だ。現在進行形でかなり前向きに検討している。ただ自分でもこんなに大きな決断をしたことがないので、大家さんの電話番号は教えてもらったのだけれど、まだ電話をかけられずにいる。超いいですねと言っておきながら煮え切らない態度でK編集者にはとても申し訳ない。自分でしっくりくるまでにもうちょっとだけ待っていただきたい。もうちょっとだけ。

私が何を迷っているのかと言うと、あまりにもどうなるかわからなすぎるという点である。まず、私はその村のことをよく知らない。今回のことがあるまではなんの縁もなかった。たしかに何度か行ったことはあるし、知り合いも住んでいるし、自然がとても豊かで素晴らしいと思うし、K編集者が主催する活動も週一で開かれるのでK編集者ないしその活動に参加されている方々とも週一で会えるから寂しくないし、家は一人で住むには十分なほど広い、けれど、どうして私がそこに住むのか、その必然性が自分でもよくわからない。どのツラ下げて「よろしくお願いします」と挨拶回りすればいいのかわからない。「なんで来たの?」と言われたときに「なんで来たんでしょうねえ、自分でもよくわからないんですけど」と説明するしかない。バイトしに行くわけではないしなあ。

しかしよく考えてみれば、人生のあらゆる選択において「絶対的な必然性」なんてものは存在しないのかもしれない。常に状況はあやふやで、動いている。選択肢はいつまでも手元にあり続けるわけではないし、何も選択しないということも結局一つの選択にしかならない。0か100で割り切れることなんてどこにもなくて、いつも曖昧に揺れ動いていく可能性の中から、そのどれか一つに賭けて、不連続に飛躍するしかない。どうせ放っておいたってクソみたいなまま変わらない人生を、いつまでも大事にしておくことに何の意味があるんだろう。自分に最適な選択肢がなければ、自分で作るしかないじゃないか。そうだ。そうやって無難な方に選択を先送りしたところで今まで一度だって後悔しなかったことはなかったじゃないか。昨晩だって、三年間片想いし続けたけれど結局最後まで告白できなかった中学生の頃の英語先生がまた夢に出て来て「これでやっと告白できる!実は俺先生のこと好きでした!」と夢の中で感動しながら告白したけれど、目が覚めて絶望したじゃないか。誰のせいにもせず全て自分の責任で一つの選択肢に身を投じるような思い切った決断ができないようでは、俺の人生なにも変わらない。それでいいのか。

と、色々追い込んでみるけれど、追い込んでも奮い立たないのが自分だ。それが自分だったではないか。もっと気楽に考えよう。

そういえば、私には自分の家を持ったらやってみたいことがあった。もちろんお誘いをもらったK編集者ともお話させてもらっている限りでは近いものを共有していると思うが、私には会社や学校以外で安定的に何の利害関係もなく自由に人が集まることのできるコミュニティを作りたいと思っていた時期があった。しかしそういっておきながらコミュニティという言葉に対して幾つかの点で個人に解せないところがあるので、もうちょっと言い方を変えるべきだと思うけれど良い言葉が見つからないので困った。結局、人柄に惹かれて人は集まってくるわけだし、そもそも好きな人同士で集まったところでそれ以上に深い関係は生まれないだろうし、そもそも人と人との関係は一対一が基本だろうし、コミュニティってなんなんなのかよくわからない。まあいいや。久しぶりに書き続けていたらもう朝の6時だけど、眠いのでもうそろそろやめたい。

【追記】 

眠すぎて文章が乱れた。あとで見返したら気持ち悪かったので最後の箇所をばっさり消したのだけれど、K編集者がつぶやいてくれていて焦る。これは書き直さねばなるまい。

ある日、K編集者とこんな話をした。世の中には、ざっくり言うと「がんばらないと承認されない場所」「がんばらなくても承認される場所」の大きく分けて二つがある。具体的には、前者が会社や学校であるとすれば、後者が家庭や友人・恋人関係になるだろうか。がんばったことの成果を認めてもらいたいという欲求は誰にでもあるけれど、がんばらなければ認めてもらえない場しかなかったら、がんばりたいという気持ちはおろか、生きたいという気すら起きなくなるだろう。人はたぶん、「がんばらなくても承認してくれる場所」があるから、「がんばらなければ承認されない場所」で、がんばることができる。そして、そもそも何のためにがんばるのかと言えば、それはがんばらなくても承認してくれた人たちに対して、自分のがんばれる範囲でがんばった成果を還元していきたいと思うからなのではないか。人は、ただがんばるだけでは、おそらく耐えられない。そういうような話だった。

 

 

自分で自分の病を治す

何かを楽しいと感じるということは、必ずしも何か美味しい料理を食べるとか、素晴らしい映画を観るとか、美しい景色を眺めるだとか、心地よい音楽に身を委ねるということではない。まず自分自身の心が目の前のものを素直に楽しめる状態になっていなければ、たとえ料理がどんなに美味しくても、たとえ映画がどんなに素晴らしくても、たとえ景色がどんなに美しくても、たとえ音楽がどんなに心地良くても、何の感動ももたらさないことは往々にしてある。目の前にあるものが客観的にいくら「素晴らしい」とされていたとしても、それが私にとって何なのか、主観的にどう感じられたのか、というのは別の話だ。自分を楽しませてくれる何かを探す前に、まずは自分自身が何かを楽しいと思える状態になっていなければならない。

では、目の前のものを素直に楽しめる状態とはどういうものだろう。それは、子供の頃のことを思い出せば、なんとなくわかるような気がする。子供の頃、私はエンピツとコピー用紙があれば、いつまでも絵を描いて遊ぶことができていた。上手いか下手かなんて気にしない。ただ描いていた。輪ゴムやセロハンテープや粘土や木の枝などを使って自分なりの遊び道具を発明することだってできた。しかし、当たり前だけど、歳を追うごとにそんなことはしなくなる。年齢に応じて「遊ぶ」という言葉の意味するものは変わっていき、高校生くらいになればもう「カラオケに行く」とか「買い物に出掛ける」くらいの意味に擦り替わっていた。いつしか決められたやり方で他の人と同じように「遊ぶ」のでなければ、「遊び」とは言えないと思うようになった。ただ、その頃にはもう熱中できるほどの面白さは感じられなくなる。さらに大学生になると「飲み会」や「イベント」など周囲で「遊び」とされているものがあまりにも自分の感性とかけ離れていたため、自分の中で「遊ぶ」という言葉の意味が完全に理解できなくなった。やはり本当の意味で「遊ぶ」とは、子供の頃のように周囲の視線を気にすることなく遊ぶということなのではないかと思う。客観的に見ればただ無意味なだけの行為に純粋に没入することができていたのは、おそらく幼少期の頃だけだったと思う。

私はとっくに二十歳を過ぎているから、社会的には当然もう子供とは言えない立場にある。しかし、どういうわけか最近ことあるごとに、私は未だに自分で自分のことを子どもだと思っている、ということをよく感じる。そしてそのことは、目の前にあるものを楽しんだり、他人と友好的な関係を築いたりする上でとても良い作用を及ぼしている気がする。少なくとも、そう思えるようになってからの方が以前よりいくらかマシな人生になってきている気がする。

去年の一月くらいから、ふとしたときによく自分が子どもだった頃の記憶を思い出すようになった。最近は、あまりにもよく思い出すから、思い出している状態の方が自然になって、あたかも自分が子どもの頃の自分に戻ってしまったかのような感覚に陥るときさえある。例えば、今まさにそうなのだが、私は寒くなるとよくリビングの床にうずくまってストーブに尻をあぶりながら暖を取るのだけれど、子どもだった頃の私も、そういえばまさに同じような格好で暖を取っていたことを思い出す。ふと思い出した記憶が目の前の景色に重なると、大人になった私がもう一度それをやり直しているような感覚に包まれる。冬になると、私はよくストーブの前に敷かれた半畳ほどの小さな絨毯の上にうずくまりながら、その絨毯の幾何学的な模様を迷路に見立てて、指を這わせて遊んでいた。学校から帰宅して、夕食がテーブルに並ぶまでのなんてことのない時間。ランドセルに乗った雪を石油ストーブの上に落とすと、ジュワッという音を立てて一瞬で蒸発していくのを見るのが好きだった。お腹が減って夕食が待ち切れないと、祖母にオカズノリをもらって食べていた。ふとしたときに、現在の自分に呼応して過去の記憶が呼び起こされる。そういうことが、最近増えてきた気がする。

そういう、自分で自分が子どもの頃に戻っているかのような感覚になっているとき、私は目の前にあるものを比較的素直に楽しめているような気がする。楽しむと言うより、自分の意識を自分以外のところに向けることができている、と言った方が感覚的に近いかもしれない。早く経済的に自立しなくては、とか、どんな仕事が自分に向いているんだろう、とか、他人からこんな風に見られたい、とか、どういう自分でありたい、とか、自分と世の中との間にどう折り合いを付けていくかということをひたすら悩み続けているようなときとは、全く違う状態になることができる。ただし、当たり前だけどずっとそうしていられる訳ではない。自分で自分のことを考えている内にひたすらモヤモヤが募っていくような、そんな冴えない時間も、相変わらず、一日の内のかなりを占める。

 

自分以外のことに意識を注ぐことができれば、自分について考えて悩むことはない。ある小説家が、小説とは薬のようなもので、自分で自分を治療するために、自分が罹っている病に効く薬を作っている、という話をしていたことがあったけれど、何かに意識を注ぐということはつまりそういうことなのかもしれない。子どもの頃のことに想いを馳せると、上手く言葉にして反論できなかっただけで、必ずしも腑に落ちないまま仕方なく受け入れなければならなかったことがいくつもあったことに気付く。そういうものを大人になってから改めて語り直すことができたとき、私は子どもの頃の自分にまた一つ近付けたような気になる。目の前のものを素直に楽しむためには、まずは自分が罹っている病を自分で治さなければならない。

1月6日(金)

コンピューターと人間|稲村彰人|note

微妙な均衡点|稲村彰人|note

とくにSNS上でシェアしているわけでもないのにいつも私のブログをわざわざ読みに来てもらっている皆さんには無断で、これからnoteでも文章を書いてみようと思う。といってもとくに中身に違いはないのだけれど、noteで書くときは一回ずつ特定のテーマに沿って、ある程度まとまった形で文章を書いていくようにしたい。天パ日記は、全公開しているけれどあくまでも「個人的な日記」と自分なりに割り切ることで、今まであまりにも好き勝手に書き過ぎてきた気がする。でも、これからはもう少し他の人にちゃんと読んでもらえる文章も書けるようになりたい。あと、ツイッターに絵を載せるようになったことについてお前は調子に乗ってるぞと思う方も中にはいるかもしれないけれど、その件に関しても自分で色々と試行錯誤している段階なので、大目に見てほしい。「どうだ書いたぞ」という雰囲気にだけはならないようにしたい。でももしかしたらそう見えるかもしれないから、だとしたらもっと改良を加えなければならない。

と、うだうだ書いているけれど、そこまで私のことを気にしている人なんていないということくらい、自分でもわかっているつもりだ。でもこれは引っ込み思案なりのおまじないみたいなもので、エクスキューズがないと体裁を保てないところが自分にはまだまだある。

今年は自分から出していく年にしたい。出すということを意識的に行っていく年にしたい。いいねの数をものすごく気にしながら、他者からの評価を厳粛に受け止めながら、自分で信じられる何かを他者に向かって投げ込んでいける年にしたい。書いた文章を「勝手に読んでください、つまらなくても自分から読みに来たんだから文句を言わないで下さい」と言いながら待つというスタンスで、身を守ってばかりいられない。全世界が灰色に見えていた頃の自分に申し訳が立たないようなことはしたくないと思いながら、自分から世界に対して「おれという人間がいるので良かったらおもしろがってください」と、たとえそんなことぜんぜん思っていなくても自分を奮い立たせながら、自分なりに身構えて立ち向かっていけるようになりたい。天パ日記は私にとってホームだけど、noteとツイッターは私にとってアウェーだ。他者の視線に八つ裂きにされながら、社会的な自己を自らの手で作りあげていく場所だ。熱い溶岩が冷たい水に当たって固まるように、自分の中でグツグツと煮立たせるばかりでなく、冷たい水に自らぶつかっていけるようになりたい。

〈更新中〉