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近況

4日間の東京滞在を終えて、昨日の朝、新潟に帰ってきた。深夜の高速バスで全く眠れなかったこともあり、昨日はほとんど布団の中だったけれども、今日は、私にしては珍しく午前中に目が覚めて、パソコンを持って近所の図書館に出掛けた。そう、パソコンを持って。前回の投稿にも書いたように私のパソコンはつい最近故障したばかりだったのだが、私の預かり知らないところでミラクルが起き、なんと無償で修理され、ちょうど東京に向かう直前の日に私の手元へ戻ってきたのだった。おそらく、あのやけに物腰の柔らかい親切な店員さんが人情味のある対応を施して下さったのだと思う。ありがたい。大切に使いたいと思う。

東京へは、いつもお世話になっている方の車に乗って向かった。私の全人生は今まで基本的にずっと受け身だったので、今回も声をかけられた時点で「行く」という選択肢以外は考えられなかったわけだけれど、東京まで付いていってもいいかという提案は自分からさせてもらった。快諾して頂けてよかった。どんな状況であれ、自分から他者と関わっていこうとするときには必ずピリッとした緊張感がある。自分の意志を伝えなければならないときは尚更だ。自分はどうしたいのか、自分はどう思うのか。この世に生まれてきてしまった以上、どうしたって他者と関わらずに生きていくことはできないのだからせめて過不足なく相手に自分の意志を伝えられるようになりたいと思う。

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そういえば、先日、通っていた精神科から心理検査の結果が知らされたので、ついでにここに乗せておきたいと思う。書かれてあることは、まあその通りだなあ、という印象で、とくに文句はない。一応、全体として、現在の精神科医療の現場で妥当とされているやり方で検証された私自身に対する分析と、私が私に対して常日頃から感じているイメージとがそんなに食い違っていなかったので、自分の認識の「正当性」が「客観的」に保証されたような気がしてちょっぴり嬉しかった。ただ要所要所で意外に感じた分析もあったので、今度そのことについて改めて取り上げて考えを深めてみるのも面白いかなと思ったりもする。今は話が逸れるのでやめる。

診断の結果、私は、発達障害自閉症スペクトラムといった何かしらのカテゴリに属しているわけではなく、単に「考え事をしがちな人」というだけである可能性が高いという。私としては、そうでしょうね、としか言えない結果だったけれど、私に精神科を勧めてくれた叔母や祖母は、ああ、「病気」じゃなかったんだねえ、という謎の納得をしていた(そもそも当事者が生きやすくなるために設けられたカテゴリーだろうから、病気とかそういう問題じゃないと思う)。私がどれだけ私自身について話しても納得しなかったのに、「医療」という権威的な存在を通じて説明されて彼女たちがようやく納得したのは、私の伝え方が悪かったからだろうか、それとも相手の受け取り方が歪んでいたからだろうか。誰かを悪者にするつもりはないけれど、私は自分の認識にもう少し自信を持ってもいいのかもしれないと思った。とはいえ、それなりに良い経験をさせてもらったので感謝せねばなるまい。去り際、いつもは杓子定規で機械的なやりとりしかできなかった精神科の先生とおすすめの本の話をした後に打ち解けて、話し易いというか、優しそうな顔をしてらっしゃいますよね、と言われたのは嬉しかった。

他人に褒められると自信になる。最近は会った人に肌を褒められることが多く、ああ、姉に勧められるがまま中学生の頃からずっと化粧水を使い続けていて良かったなあ、としばしば思う。当時、私は、廊下ですれ違っただけの全く面識のない女生徒に「うわ!!ニキビ!!」と気持ち悪がられるほど荒れた肌をしていて、鏡を見つめる度にどうしようもない気分になって、跡になるからダメだダメだと思いながらもついついニキビを潰しまくって、爪と爪の間から飛び出した固形の皮脂の塊が何の破損もなく手元に残ったときだけは誇らしい気分になるもののそれ以外は地獄のような気分で鏡を覗き込んだりしていたものだけど、月日は流れた。東京に行った際も知人から肌がキレイだと褒められて嬉しかった。でも、なんかあれ、話が全く前に進まないので、だめだ一旦仕切り直します。

四月

起き抜けにスマホを開いたらいつもよりやけにサクサク動くので、ああ、新しい月になったんだなと思った。一晩たって、少し気分も落ち着いてきた。MacBook Proのことは、もう仕方がないではないか。修理に出すしかない。何万かかるか知らないが、修理して初めて本当に自分のものになるような気もする。そういえばずっと、パソコンを買ってからの日々はどこか浮ついていて、背伸びして「現代で活躍する100人の映像作家たち」みたいな本をブックオフで読み込んで嫉妬の炎に駆られたりするなど異常だった。頭を冷やそう。おれは美大卒じゃないんだから。

 

人間の心の中心には誰でもぽっかり穴が空いている、というAV監督・二村ヒトシさんの話が好きだ。その穴から寂しさとか劣等感とかいろんなネガティブな感情が湧き出てくるんだけど、それが同時に本人の魅力でもあるという。自分が味わったタイプの苦しみしか、誰かの苦しみを受け止めることはできない。あと感情は湧き出すのに任せるしかなく、自分でどうにかできるものではなく、逆にそれを覆い隠そうとすると変な方向に歪んで怒りっぽくなったりとかなんとかあれなんかうまく書けないな。今度読み返そう。とりあえず、私は自分の劣等感をMacBook ProRetinaディスプレイの艶めきで埋め合わせようとしていたところがなかったわけではないような気もするので、修理後、もう一度改めてフラットな気持ちで出会い直したいと思う。布団から出て今日はビックカメラに向かう。

 

ビックカメラにきた。このMacBook Proを買うまでに迷いに迷って先月中旬から1週間くらい毎日ここに通っていたから、なんともいえない懐かしさがある。私にこのパソコンを勧めてくれた店員さんは元気にやっているだろうか。このビックカメラでは、私がMacBookの前であまりにも迷うものだから店員さんとちょっと仲良くなりかけたりして、それなりに楽しい一時を過ごさせてもらった。修理代は身銭をちゃんと切ろう。身銭を切らないでどれだけやれるかみたいなところで勝負してきたような23年間だったけど、もうそういうのはいい加減やめよう。前のパソコンを買ったときは店員さんと話すのが怖くてビクビクしながらよくわからないパソコンを買ったからか、結局うまく使えなかった。でも今回の二代目は違う。思い入れが違う。

 

パソコンを診てもらった。電源を入れても画面が付かないので、ひとまず見積もりに出すことになった。治るだろうか。

そんなことより、今電車に乗りながら文章を書いているんだけど、目の前に座っている人がおそらく中学校の頃の社会の先生のような気がする。あーやっぱりそうだなあ。休日だから新潟まで出掛けてきたんだなあ。いやあ。おれからは絶対に声をかけないし、相手も絶対におれのことは気付かないだろうけど、それがいいですね。腹減ったなあ。

パソコン

家に帰れば祖母が飯を作ってくれている。でも家にはまだ帰りたくなくて、どうしても食いたかったというわけではなかったけど寿司屋に入った。別にうまくない。なんだかんだ10皿くらい食べた。最初は、3皿くらい食べたら帰ろうと思っていたけど、なぜか気分が落ち着かなくて、別に食いたくもないはずなのに次々と手を伸ばした。別にうまくもない。熱いお茶を何杯も飲んだ。着ているジャンパーが鬱陶しく感じられるほど身体がじわじわと熱くなって、一層気分が落ち着かない。イライラしながら目の前のタブレットの会計ボタンを押して、財布を探す。バックに手を入れる。荷物の隙間に腕を伸ばす。ない。財布がない。やばい。そう思ってバックを抱え、あちこちチャックを開けたり閉めたりして、焦って財布を探した。でも、ない。いよいよやばくなってきた。店員さんになんとかお願いして、スマホでもパソコンでも担保に取って財布を家まで取りに行かないといけない。でもそんなのしたことない。いよいよ、やばい。気持ちが浮ついてクラクラしてきた。私はもう一度バックを探そうと、中に入っていたパソコンを取り出して、中をよく見ようとした。手に取ったパソコンをテーブルに置く…その瞬間、チャックの開いていたカバーからパソコンが滑り落ち、まともに床と衝突する。バシーンという音が寿司屋に響く。慌ててパソコンを開く。電源がつかない。私はいよいよキャパオーバーになって、「大丈夫ですか?」と聞いてきた店員さんに「いやほんとまじでいや」みたいなよくわからないタメ口を聞いて、そっとパソコンを閉じた。自己嫌悪が襲ってくる。財布はリュックの底にあった。レジへ向かう。イヤな汗が額に吹き出てくる。もうおれは自分がイヤで仕方なくなって、今まであった色んなイヤなこととかそういうものをいっぺんに思い出して、ああ、おれは、おれはと思いながら、自転車に乗って、さっきまでいた本屋にもう一度戻って、ベンチに座ってブログを書くことにした。パソコンを買った話はここに書いてないけど、おれは今月、いろいろあってパソコンを手に入れたんですよ、このブログを読んでいる皆さん。得たものは失われる。きっとおれは何かがおかしい。このままの私で、私は生きていけるのだろうか。許してほしい。怒らないでほしい。私はいつも自分の中の何かに向かって懺悔するように、このブログを書いてきた。起こったことをなるべく自分の言葉で。それは、自分一人で生きていくにはあまりにも自分が弱かったからで、頭の中で七転八倒する自分を何かに見守ってほしいと思っていたからなのかもしれない。おれはまだ親にはなれないなと思う。一生なれなくても、別に構わないのかもしれない。おれはどうして生まれてきたんだろう。

子どもの頃から、おれは自分自身の不幸な身の上を他人に語ることで、小説かドラマに出てくる悲劇の主人公みたいに振る舞って人気者になれるんじゃないかと、心のどこかで思ってきた。たぶんそれはいいことじゃない。苦しいときほど、他人のアラがよく見える。私が誰も信用できなかったのは、皆が皆、それぞれに都合のいいやり方で自分を誤魔化していて、それに気付いていないフリをしたり、本当に気付いていなかったりするからだ。繋がりなんてものは、本当はどこにもない。本当はみんな孤独だ。一人でいても寂しくない、なんてウソだと思う。頭の中に幸せだったときの記憶があるから、一人のときも耐えられるんじゃないか。ああ、パソコンは治るんだろうか。なんかもうやっていける気がしない。楽しい人生を送りたいなんて贅沢は言わないから、せめて穏やかに日々を終わらせていけたらと思う。明日ビックカメラに行こうか。どうすんだおれ。あーあ。あーあーーあーー。何もできる気がしない。車に乗ったら他人を轢き殺すんじゃないか。仕事をしたら、重大なミスを犯して殺されるんじゃないか。あーーあ。あーーーーあ。あーーーー。

 

「おれの目を見ろよ!」「おれの話を聞けよ!」と叫びながら、父、祖母、祖父、叔母のいる前で実家のリビングを破壊し尽くす夢を見た。私がいくら話をしても無視されるので、全員の視線が集中しているテレビにまず蹴りを入れた。これだけ叫んでいるのにテレビなんて見ている場合かよ!ふざけんな!と思っていた。しかし、私の話はまたも無視され、黙々と壊れたテレビを直しにかかる父。祖母は椅子に腰掛けながら、半分だけになった画面をじっと見つめている。私はさらに怒りが増す。私を無視したままスタスタと父が台所へ修理道具か何かを取りに行くのが見えたので、私は後を追いかけて「いい加減にしろよ!」とさらに怒号を浴びせかける。すると父が振り向く。無表情で、ぼんやりとした目でこちらを見ている。手にはナイフを握っていて、意味のわからない言葉をなにやらブツブツと話している。私は怖くなって目を覚ました。そういう夢だった。

昨日も精神科に行ってきた。これで3回目になる。今はまだ心理検査の段階なのでなんとも言えないところはあるけれど、自分が自分に対してどのように思っているのかということをまるごと吐き出させてくれるような場所ではない気がしている。向こうの手順に沿って話をすることしかできないので、自分の気持ちや考えを細切れでしか伝えられない。今日も行くことになっているけど、正直、乗り気がしない。臨床心理士の方とならもう少し話をしてみてもいいと思うが、精神科の先生と実りのある話ができるかどうかは疑わしい。このブログに自分の気持ちをぶつける方がよっぽど治療効果がある気がする。

送り迎えをしている車中で、叔母と口論になった。私の今後について叔母が話す内容に納得できず、「まあ、これは世代の問題なので分かり合えませんね」みたいなことを言うと、「いや、でも現実はそうだよ現実は」と強めに返された。叔母の言う現実とは「生きるためには税金と年金と健康保険と生活費を払わなければならない」ということで、「その辺をあなたはしっかり考えているのかい」と私に聞いてきたのだった。言っている内容自体は正論だと思うけど、正論を振りかざして私を論破しようとしてくる口調が癇に障ったので、私は「どうしてあなたに説教されなければいけないのですか」と言葉を返した。叔母も、前に進んでいこうとする私の気持ちに寄り添ってくれるわけではないのだなあ、と思った。最後に私は「あなたの言う現実と私が思う現実は違いますから」と言った。どうせ通じないだろうなとは思ったけど、それ以外に言葉が思いつかなかった。「いやそんなことない、現実は、現実はどうするの?」とまた叔母は言う。こういうときに、いちいち相手にしないで上手くかわすにはどうすればいいんだろう。自分の考えが頭から正しいと信じ切っている人とは、何の話もすることができない。

 

精神科から帰ってきた。診察は30秒で終わった。「それからお変わりないですか?」と尋ねられたので、「はい、ないですね」と答えたのみだった。診察料は1210円だった。どうだかなあと思いつつ、そんなものかもしれないなあとも思う。

仕事をするとか、大学で勉強をするとか、他人と楽しく交流するとか、自分で何かを表現するとか、そういう選択肢が目に浮かんでこないほど精神的に不安定だったときとは違い、今はずいぶんと落ち着いた気持ちでいられる時間が増えてきた。何か違和感を感じたら、それをなるべく言葉にして吐き出してしまえばいい。ぶちまければいい。ただ、なるべくなら、ぶちまけ方を自分で調整できるようになった方がいいのは言うまでもなく、その辺がこれからの私の課題になっていくだろうと思う。スムーズにそつなく当たり障りのない会話を和やかな顔で自然にできるようになること。その先にしか賃労働はない。

他の人たちは目の前にいる人といちいち本気でコミュニケーションしようとしているわけではないらしいということを、最近になってようやく気付けるようになってきた。皆、あまり目を合わせて話をしていないことに始まり、その場で本当に自分の思っていることや考えていることを口にしようとしてないようだ。愛想笑いでもして適当にやり過ごせばいいやと思っているのか、どうでもいいようなことをさも興味があるかのように話したりしている。中には、私から見れば本当にどうでもいいとしか思えないようなことに本気で熱心になっている人もいる。というか大半はそうだ。そういうよくわからない人たちが織り成す空間で私が違和感なく溶け込めるようになるためには、自分の抱えるどぎつい感情を何らかの形で消化させるか、それとも内に秘めて何も感じていないかのように降る舞うしかない。後者はテクニックが必要なので、当面、まずは前者をやり尽くすしかない。ぶちまかすしかない。

(更新中)

起きた。時刻は9時40分。いつもより早い。それには理由があった。今日は火曜日ということで、一週間のまとめ買いをするために父が祖母の家に迎えに来る。寝起きのぼんやりとした状態の中、父が玄関の扉を開く音が聞こえた。起きようか寝ようか迷っていると、一階から小声でボソボソと「私がまだ寝ている…」というような話をしているのが分かった。ああ、色々なことに限界が来て学校に行けなくなっていった高校三年生の頃も、父や祖母に同じように私のことを影で言われていたな、と思い出し、イヤな気分になった。私の家族には「肝心なことを本人の前で言わない」という、とても良くない性質がある。言わないだけならまだいいけれど、本人に聞こえてしまっていることを勘付いていないという愚劣さがある。私の目の前に現れる姿を見る限りそれほど悪い人たちではないのだが、私が子どもの頃から彼らに全幅の信頼を置くことができなかったのは、彼らが私のいないところで全く違った顔を見せるからだった。私の陰口が部屋から漏れて聞こえるとき、私はあえて彼らが話している部屋の中に入っていった。そうすると彼らは急に口をふさぎ、表情を強張らせ、脈絡のない不自然な言葉を私にかける。その様が痛快でもあり、苦痛でもあった。私に何か言うことがあるのなら、思っていることをそのまま全て私の前で言えばいいじゃないか。鍵を握るのは祖母だ。祖母は根本的には穏やかで優しい人柄なのだが、自分の意見をはっきり言えないところがあり、その場では同調するものの、後になって恨み言を言う節がある。祖母は、私の前では父の批判をするが、父の前では私の批判をする。私は生まれの母親を知らないので、祖母を育ての母親のように思ってきたのだが、しかし祖母は祖母であり、父の母であった。絶対的なものなどどこにもない。静かな怒りが湧いてきた私は、いつもより早く布団を飛び出して一階に向かった。ようやく勘付いた祖母が甲高い声色でわざとらしく「買い物行ってきまーす」と叫ぶ。私は無視して居間に向かった。

今日はパソコンを買おうと思う。

〈更新中〉

タウンワーク

何回目になるだろう、タウンワークを見ている。父との約束で、私への仕送りは来月から完全に途絶える(送られてきたとしても受け取らない)ことになっているので、いよいよ本格的に仕事を探さなければならなくなった。巻で暮らすことを考えると、家賃2万+水道光熱費1万+食費2万+通信費1万+その他1万と考えて、最低でも月に7万円は稼ぎ出さなければならない。私が今までの人生で稼いだことのある額は月に4万8千円が最大なので、あの頃の苦労を上回る苦労をしなければならないのだと思うと本当に先が思いやられる。今はまだ祖父母の家に居させてもらっているので生活費の問題はないけれど、やはり早めに家から出たいので、今月は精神科に通いながら現実的にその準備を始めていきたいと思う。

求人票を見ていると、まるで中学生の頃の部活動紹介みたいだなあと感じる。映っている写真の顔が皆、揃えたように笑顔で怖い。「上下関係のはっきりしている集団に下っ端として入っていく」という経験は、思えば小学生の頃からずっと苦手で避けてきたけれど、そのツケが今になって顕在化しているように思う。たかだか一年か二年先に生まれたからって何が偉いんだろうと、入った部活で全然先輩を敬えなかったことを思い出す。私は中学生の頃、イケイケな感じの友人たちが入る華やかなサッカー部に自分も入ろうとしたものの、仮入部で「これは確実に仲間外れにされる」と察知して、仕方なく内心馬鹿にしていた卓球部に「どうせおれは…」と思いながら入ったクチなのだが、あの頃の切なかった心境が今もときどき思い出されて、胸にくる。たぶん私はその時から何も進歩していない。あの時、私はどうすれば良かったのだろう。あれから十年経ち、今もまだ私はその答えをタウンワークの中に探している。

精神科の医者は、私の社会不適応の原因をADHDだと疑っているみたいだけれど、私は自分でそうは思っていない。人格形成期に染み付いた他者との距離感や世界に対する信頼感、そうした必ずしも適切とは言えない認識の枠組みが、現在の自分の認知を歪めているのではないかと思っている。私はきっと他人に拒絶されることを怖いと思いすぎているのではないか。そして出会った人すべてに対して、自分のことを良く知ってほしいと思いすぎているのではないか。長い間、私は誰も自分のことなんて理解してくれないという孤独に苛まれながら生きてきた。現に、それは真実なのかもしれない。人と人とは絶対に分かり合えず、ただ互いに自分にとって都合の良い姿を相手に投影し合っているだけなのかもしれない。でも、そう思いながら私は、何をしてきたんだろう。やはり腹の底からそう思うことに耐えきれなかったから、勇気を振り絞って他者の前に立ち、自分の気持ちをぶちまけながら手探りで信じられそうな何かを一つ一つ見つけてきたのではなかったか。今の私になら、働くこともできると思う。働けないと思ったら「やっぱり働けませんでした」と正直に謝ればいいだけのことなのだから。中学生の頃の部活と違って、限られた選択肢の中から選ばなければいけないわけでも、強制的にどれか一つの部活に入部しなければいけないわけでもないのだから。

近況

一昨日、久しぶりに友人と卓球をしたのだが、その疲労と筋肉痛で昨日は家の中でジッと何もしていないこととなった。月初めなので、WiFiがない祖父母の家にいてもまだ3G回線でネットを堪能することができる。私はここ一週間見逃していたバイオハザード7の実況動画を見尽くすことにした。少し前までは、グロテスクなゾンビ映画やホラーゲームの何がどう面白いのか全く検討がつかなかったけれど、ここ数年で趣味嗜好に変化が起きてきて、すっかりR15指定の作品の魅力に取り憑かれてしまった。あれらはたぶんグロいからこそいい。グロさに自分の内面の負の部分を投影して、それを銃なりバールなり斧なりで破壊するからこそ爽快感が生まれてくるのだ。現実世界は複雑だから、世の中や自分の人生にいくら不満があったとしても、わかりやすい「悪」を叩けばそれだけで問題が解決するというようなことはない。それに比べてゾンビゲームは単純だ。ゾンビは倒すしかない。攻撃しなければ攻撃されるだけだから、ゾンビに対する攻撃はつねに正当化される。バーチャルな世界の中でくらい、自分の心に蓄積した澱のような感情を吐き出しても許されるだろう。少なくとも現実世界にそれを持ち込むよりは。私はスマホの小さな画面で、振りかざす斧を、倒される戦士を、噴き上がる血を見ていた。そうして一日が終わった。

今日は、2回目の精神科受診の日だった。ちなみに起きたのは午前11時。卓球の疲れが昨日休んだだけでは解消しきれなかったせいか、それとも持ち前の過眠体質のせいか、一階の祖母に「もうすぐ叔母さんが来るよ!」と声を張り上げられてようやく目が覚めた。私が家族に「朝起きられないんだよね」と相談すると「体内時計が乱れてるんだね」と言われるけれど、それにしても、こうも体内時計は乱れたままなものだろうか。私は自分が睡眠障害やら過眠症やら起立性調整障害やらなんかそういう病気なんじゃないかと疑っている(そうであって欲しいと思っている)。自分の意志が弱いせいだとは、やはりどうしても思えない。前回も書いたけれど、私の場合、寝起きの挙動は自由意志と呼ぶにはあまりにもお粗末な意識状態なので、自分でどうにかしようと思って行動できるような状況では本当にないのだ。しかしそうも言ってられないので起床に関してはまた自分なりに試行錯誤していくことにする。詳細は後述する。

目を覚まして布団を畳み、服を着替えて白飯と味噌汁をかき込むと、玄関に叔母の姿が見えてきた。最寄りのコンビニでコーヒーを買い、叔母の車で病院へ向かう。自分よりも年齢が上の人と世間話をすると、そういやおれももう大人なんだったなと実感する。とりわけ政治や宗教について話が及ぶと、それぞれの人に、軽く話した程度では変わらない、ある程度固まった意見や価値観があるということを再認識する。私が生きている世界というものは、そういうものだったのだ。大人になるということは、自分の信じる価値や思想をそのまま言い放って終わりにするのではなく、むしろそれを腹の底に収めたまま、現実的な他人との関わりを粛々と模索していくということなのかもしれない。私はまだ自分が子どもだと思う。そしてその想いは、何かを感じたり考えたりする上でとても大切な意識だと思う。でも、きっとそれだけでは生きていけない。子どもの心を抱えながら、大人として生きていくこと。目指さなければ大人にはなれない。

一時間半かけて行われた心理テストは、意外にも楽しいものだった。初診のときは、大して話もしていないのにいきなり身に覚えのないADHDを疑われてなんとなく釈然としなかったのだけれど、何がきっかけであれ、これほどみっちりとした心理検査を受けられたのは良かったと思う。しかも、まだあと二日ある。占いやら、就活の自己分析やら、たまにSNSで流れてくる安っぽい心理テストやらとは比べ物にならないほど頭を使うしっかりとした検査だった。頭を使うのは楽しいもんだなあ、と久しぶりに思った。

例えば「今から言う数字を覚えて繰り返して下さい」というような質問をされた。最初は「2、9」という具合に簡単なのだが、だんだん数が増えて「3、2、8、6、4、9、1、5」とかになってくるとかなり苦しくなる。こうして文章にすると伝わりにくいかもしれないが、口頭で一度に言われただけの内容を瞬間的に記憶するのはとても難しかった。「今から言う数字を逆から繰り返して下さい」という問題もあったが、難しすぎて笑えてきた。結果はまだだけど、私はこういうのが苦手な性質なのかもしれない。問題は他にも「日本三景を言って下さい」とか「カードを並び替えて物語を完成させて下さい」とか「模範通りに図形を組み立てて下さい」とか様々だった。