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無題

昨日から父が留守だと聞きつけて、久しぶりに祖父母の家を離れて、いつもは父が一人で住んでいる方の実家で過ごしている。が、昼寝をしたらもう夜の10時になってしまった。ここは、当然のようにWiFiもバッチリ完備されているので、布団に潜りながら思う存分ネットを使うには最高の場所なんだけど、おかげで外出しようという気が起きなくて、ひたすら屋内でダラっとした一日を過ごしてしまいやすいというデメリットがある。腹が減ってきたので、昨日買った食パンを二つトースターで焼いて、ジャムとツナマヨネーズを塗って食べた。それから、まだ腹が空いていたので、湯を沸かしてカップ麺に注ぎ、冷蔵庫に余っていた絹ごし豆腐に麺つゆをかけて食べた。

ヒマなのでテレビを付けてみる。名探偵コナンの映画が終わろうとしていた。コナンが倒壊しかかっている建物の中からサッカーボールでヘリコプターを狙っている。そばにいるスナイパーに射撃の隙を作ろうという魂胆らしい。ヘリコプターには犯人と思しき人物が乗っていて、不敵な笑い声を上げながら銃でコナンたちを狙っている。無茶だなあ、と思いながら、私はチャンネルを変えた。卓球の平野選手が世界女王を倒したらしい。ある長身の水泳選手が日本新記録を更新したらしい。私はテレビを消した。皿を洗って、自分の部屋に戻った。

本を読む気にもならないし、パソコンを開く気にもならないし、DVDを借りてくる気にもならないし、部屋を片付ける気にもならないし、散歩に出掛ける気にもならないし、ゲームをする気にもならないし、絵を書く気にもならないから、ブログを開いて、文章を書くことにした。そろそろ皆、眠りにつく頃だろうか。今日は何があったのだろう。どんな靴下を履いて、どんな昼食を食べて、どんな話をして笑い、どんなことを思い浮かべて眠りにつくのだろう。今日も一日が終わっていく。私は今日、とくに何も記憶に残ることのない、きっと後から思い出すこともない、何の変化も喜びもない、ただの一日を過ごした。これを読む人はどんな一日を過ごしたのだろう。

耳を澄ますと、部屋には蛍光灯のビーンという音が響いている。座禅をするときは聴覚に意識を集中させると良いらしいということをふと思い出した。こういうヒマなとき、どんなことをしたら楽しいのだろう、とちょっとだけ考えてみると、一度観たことのある、おじいさんが水没していく街に一人で住んでいるという短編映画のことを思い出して、ああなんか、ああいう雰囲気の作品とかってやっぱりいいよな、と思っていたら、眠くなってきた。寝る前にコンビニまで散歩して、久しぶりにお酒を飲むのもいいかもな、と少し思った。

父性・母性

近々、姉が出産を迎えるらしい。新潟でいつもお世話になっている方も先日お子さんが産まれたそうで、最近はなんだか私の周りでおめでたい話が相次いでいる。こうなってくると、私も自然に「親になるってどういうことなんだろう」「自分に子どもができたらどうするんだろう」というようなことを考えずにはいられない。まだまだ子どもだなあ、なんて思いながら今日まで23年間生きてきて、今年で24歳になるわけだけど、よく考えてみれば、とっくにもう親になってもおかしくない年齢になっていたのだった。人生は、始めようとなんて思わなくも、もうずっと前から勝手に始まってしまっていて、そして、知らない間にどんどん先へと進んでいく。何もしなくても勝手に進んでいってしまうこの人生を、どうにかして自分の手に収めるために、私は改めて自分で自分の人生を始めていかなければならない。どのような自分でありたいのか。子となる人に対して、どのような生き様を見せるのか。父とは何か、母とは何か、家族とは何か、どのような働き方・暮らし方が望ましいのか。自分一人だけの人生であったのならまだしも、いつか自分が大切だと思う人と関わりながら共に生きていくのだということを考えれば、やはり今のような生き方ではマズいのではないかという思いが胸の底から湧いてくる。

父性とは何か、母性とは何か、ということを最近よく考える。おそらく以前、何かの心理学の本を読んでぼんやりと記憶している内容だと思うのだけど、自分と他者というものがあったとき、母性の役割とは繋がること(両者が同じ存在であることを強調すること)、父性の役割とは繋がりを断つこと(両者が違う存在であることを強調すること)なのではないかと思っている。家族というものが一つの集団である限り、どこかで必ずウチとソトを分ける基準が必要になってくる。つまり、ある一人の人に対して「お前は仲間だけどお前は仲間じゃない」という判断を下さなければならない局面が必ずある。その判断を下すのが、父性だと思う。それがなければきっと集団が集団であるということの意味を失ってしまう。逆に母性的な感性とは、その辺をうまくぼかすというか、まあいいじゃないですか別にという感じで良い意味でなあなあにするという機能があるように思う。ちなみに男であっても母性的な人もいるだろうし、女であっても父性的な人もいると思うので、「生物学的に男/女だからどう」という話をここでしたいわけではない。私なんかは割合に母性的なところが強いタイプの男なんじゃないかと自分で勝手に思っている。単に、優柔不断というだけのことかもしれないけれど。

ここまで書いたら、エニエスロビーでルフィとウソップが決闘をしたときに、ルフィがウソップを殴り倒したあとで、ゾロに「重い…」とだけぽつりと呟いた場面が頭に浮かんできた。ゾロは「それが船長(キャプテン)だろ。お前がフラフラしてやがったら、おれたちはどうりゃいいんだ」みたいなバシッとしたことを言って、それからルフィは声を出さないようにして泣くのだけど、ああ、あのシーンはとても良かったなあとしみじみ思う。ていうか今でこそポピュラーになりすぎてちょっと距離感ができてしまった感じがあるけど、なんだかんだ幼少期から思春期まで漫画と言えばワンピースしか読んでこなかった人生を送ってきたから、こうやって考え事をしているときにふと思い浮かんでくるのはやっぱりワンピースなんだなあ。その後、ウソップが仲直りをしたがっているという話を人伝てに耳にしたルフィが「じゃあさっさとウソップを連れてこよう」みたいなことを言うのだけど、ゾロが「ちょっと待った」みたいな感じで制止して「一度完全に仲間でなくなった人間をもう一度仲間に入れるのであればそれなりにケジメを付けるべき」みたいな感じのことをバシッと言う。あれとかもまさにゾロは父性的だなあという感じがする。ケジメを付けるという場面はいつか必ずどこかで必要になる。私も、そろそろだなという気がしている。

具体・抽象

久しぶりに文章を書いたら、頭が疲れてきた。こめかみの辺りがジンジンと熱く、重くなり、触ると脈を打っているのが分かる。一人でいると再現なく考え続けてしまうから、やはり私は定期的に他人と話す機会を作った方が良いのだろう。自分の頭の中でだけ考えているとすぐに容量がいっぱいになって、それ以外のことが手に付かなくなってしまう。

東京滞在中、私は参加するだけだったはずのトークイベントになぜか登壇することになったのだが、どういうわけか、二、三十名の人を前にしても自分がピクリとも緊張していないことに驚いてしまった。なんなら、聴衆一人ひとりの目を見つめられるほどの余裕さえあった。登壇している人たちとの間に関係が積み重なり、それなりにどのような会話が展開するのか予想できるようになってきたということもあるだろうけど、それにしても、今になって振り返れば不思議なほど平常心だった。どういうわけだろう。

そういえば、最近は初対面の人と会ってもほとんど緊張しなくなってきた。初めて会う人や親しいのか親しくないのか微妙な距離感の人に対して、昔だったらちゃんと自己紹介しようとしたり、なんとか会話を繋げようとしたりしたのだろうけど、そういうことを無理にしなくなってから、自然と自分がどんな風に振る舞えば気分良くその場にいられるのか、分かってきた感じがある。究極的に言えば、自分が心地良い時間を過ごせればそれでいい。話したくないときは話さなければよく、話したいときにだけ話せばいい。「こんなことを話してもどうせ友達になんてなれないのにな」と思うことは無理に話さなくてもいいし、そんなことを話すくらいだったら、黙って水を飲んだり飴を舐めたりしていた方が充実した時間を過ごすことができる。どんな場面でも応用可能かどうかは知らないけど、面接とか葬式とか、そういう本当にちゃんとしなきゃいけない場面以外では、なるべく自分自身が一番ラクでいられるように振る舞いたいと思う。

そういえば、先日受けた心理検査に「抽象的な思考が得意」という分析があって、腑に落ちたことがあった。たしかに結果を見ると、語彙力や抽象的な思考能力を表す項目の数値だけが異様に高かった。受けたテストは、提示された用語を自分なりに噛み砕いて改めて言葉にし直すというもので、例えば「『うららか』はどういう意味ですか?」「『森羅万象』はどういう意味ですか?」というような質問をされた。答えに窮するようなものもたくさんあったけれど、ふしぎとテストを受けていて楽しかったのを覚えている。それは、今になって思えば、似たようなことを私が日常的にしているからかもしれなかった。

私は他人と会話していて、相手の話していることを一発で理解することができないことがたくさんある。何か質問をされたときに、相手の言葉の使い方が自分と違うために、「それってこういう意味ですか?」「それは言い換えるとこういうことですか?」という質問を投げかけなければ、相手の言わんとしていることが理解できず、会話が続けられなくなる。私にはどうも、言語というものはそもそも単語と意味が一対一対応している(一義的に決定されている)わけではなく人によって使い方も違えば指し示そうとする内容も違うのではないかというような感覚があるとでも言えばいいのか、注意深く相手の言葉の使い方を吟味しないと相手と自分のイメージする価値観のズレがどんどん大きくなってしまうから、ついつい相手の話の腰を折るような質問が増えてしまう、みたいなところがある。この辺りのことは、まだ自分でも上手く整理できているわけではないので、関連書籍を読むなどして考察を深めたいところではあるけれど、ともかく、初めから同じ価値観を共有している前提で話が進んでいくようなときは思わず横槍を入れないと話についていけなくなってしまう。そういう傾向があるから、抽象的な思考の項目が延びたのではないかと思う。

人それぞれ、考えていることも感じ方もまるで違う。なのにどうして話をしたり、一緒に笑い合ったりできるのだろう。しかしまあ「お風呂はあったかいね」とか「ご飯はやっぱりおいしいね」とか、そういう超具体的な会話をしているときが一番幸せな感じはあるので、なるべく余計なことを考えないで済む生活を送りたいなあとは思う。なんか上手くまとまらない。

近況

4日間の東京滞在を終えて、昨日の朝、新潟に帰ってきた。深夜の高速バスで全く眠れなかったこともあり、昨日はほとんど布団の中だったけれども、今日は、私にしては珍しく午前中に目が覚めて、パソコンを持って近所の図書館に出掛けた。そう、パソコンを持って。前回の投稿にも書いたように私のパソコンはつい最近故障したばかりだったのだが、私の預かり知らないところでミラクルが起き、なんと無償で修理され、ちょうど東京に向かう直前の日に私の手元へ戻ってきたのだった。おそらく、あのやけに物腰の柔らかい親切な店員さんが人情味のある対応を施して下さったのだと思う。ありがたい。大切に使いたいと思う。

東京へは、いつもお世話になっている方の車に乗って向かった。私の全人生は今まで基本的にずっと受け身だったので、今回も声をかけられた時点で「行く」という選択肢以外は考えられなかったわけだけれど、東京まで付いていってもいいかという提案は自分からさせてもらった。快諾して頂けてよかった。どんな状況であれ、自分から他者と関わっていこうとするときには必ずピリッとした緊張感がある。自分の意志を伝えなければならないときは尚更だ。自分はどうしたいのか、自分はどう思うのか。この世に生まれてきてしまった以上、どうしたって他者と関わらずに生きていくことはできないのだからせめて過不足なく相手に自分の意志を伝えられるようになりたいと思う。

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そういえば、先日、通っていた精神科から心理検査の結果が知らされたので、ついでにここに乗せておきたいと思う。書かれてあることは、まあその通りだなあ、という印象で、とくに文句はない。一応、全体として、現在の精神科医療の現場で妥当とされているやり方で検証された私自身に対する分析と、私が私に対して常日頃から感じているイメージとがそんなに食い違っていなかったので、自分の認識の「正当性」が「客観的」に保証されたような気がしてちょっぴり嬉しかった。ただ要所要所で意外に感じた分析もあったので、今度そのことについて改めて取り上げて考えを深めてみるのも面白いかなと思ったりもする。今は話が逸れるのでやめる。

診断の結果、私は、発達障害自閉症スペクトラムといった何かしらのカテゴリに属しているわけではなく、単に「考え事をしがちな人」というだけである可能性が高いという。私としては、そうでしょうね、としか言えない結果だったけれど、私に精神科を勧めてくれた叔母や祖母は、ああ、「病気」じゃなかったんだねえ、という謎の納得をしていた(そもそも当事者が生きやすくなるために設けられたカテゴリーだろうから、病気とかそういう問題じゃないと思う)。私がどれだけ私自身について話しても納得しなかったのに、「医療」という権威的な存在を通じて説明されて彼女たちがようやく納得したのは、私の伝え方が悪かったからだろうか、それとも相手の受け取り方が歪んでいたからだろうか。誰かを悪者にするつもりはないけれど、私は自分の認識にもう少し自信を持ってもいいのかもしれないと思った。とはいえ、それなりに良い経験をさせてもらったので感謝せねばなるまい。去り際、いつもは杓子定規で機械的なやりとりしかできなかった精神科の先生とおすすめの本の話をした後に打ち解けて、話し易いというか、優しそうな顔をしてらっしゃいますよね、と言われたのは嬉しかった。

他人に褒められると自信になる。最近は会った人に肌を褒められることが多く、ああ、姉に勧められるがまま中学生の頃からずっと化粧水を使い続けていて良かったなあ、としばしば思う。当時、私は、廊下ですれ違っただけの全く面識のない女生徒に「うわ!!ニキビ!!」と気持ち悪がられるほど荒れた肌をしていて、鏡を見つめる度にどうしようもない気分になって、跡になるからダメだダメだと思いながらもついついニキビを潰しまくって、爪と爪の間から飛び出した固形の皮脂の塊が何の破損もなく手元に残ったときだけは誇らしい気分になるもののそれ以外は地獄のような気分で鏡を覗き込んだりしていたものだけど、月日は流れた。東京に行った際も知人から肌がキレイだと褒められて嬉しかった。でも、なんかあれ、話が全く前に進まないので、だめだ一旦仕切り直します。

四月

起き抜けにスマホを開いたらいつもよりやけにサクサク動くので、ああ、新しい月になったんだなと思った。一晩たって、少し気分も落ち着いてきた。MacBook Proのことは、もう仕方がないではないか。修理に出すしかない。何万かかるか知らないが、修理して初めて本当に自分のものになるような気もする。そういえばずっと、パソコンを買ってからの日々はどこか浮ついていて、背伸びして「現代で活躍する100人の映像作家たち」みたいな本をブックオフで読み込んで嫉妬の炎に駆られたりするなど異常だった。頭を冷やそう。おれは美大卒じゃないんだから。

 

人間の心の中心には誰でもぽっかり穴が空いている、というAV監督・二村ヒトシさんの話が好きだ。その穴から寂しさとか劣等感とかいろんなネガティブな感情が湧き出てくるんだけど、それが同時に本人の魅力でもあるという。自分が味わったタイプの苦しみしか、誰かの苦しみを受け止めることはできない。あと感情は湧き出すのに任せるしかなく、自分でどうにかできるものではなく、逆にそれを覆い隠そうとすると変な方向に歪んで怒りっぽくなったりとかなんとかあれなんかうまく書けないな。今度読み返そう。とりあえず、私は自分の劣等感をMacBook ProRetinaディスプレイの艶めきで埋め合わせようとしていたところがなかったわけではないような気もするので、修理後、もう一度改めてフラットな気持ちで出会い直したいと思う。布団から出て今日はビックカメラに向かう。

 

ビックカメラにきた。このMacBook Proを買うまでに迷いに迷って先月中旬から1週間くらい毎日ここに通っていたから、なんともいえない懐かしさがある。私にこのパソコンを勧めてくれた店員さんは元気にやっているだろうか。このビックカメラでは、私がMacBookの前であまりにも迷うものだから店員さんとちょっと仲良くなりかけたりして、それなりに楽しい一時を過ごさせてもらった。修理代は身銭をちゃんと切ろう。身銭を切らないでどれだけやれるかみたいなところで勝負してきたような23年間だったけど、もうそういうのはいい加減やめよう。前のパソコンを買ったときは店員さんと話すのが怖くてビクビクしながらよくわからないパソコンを買ったからか、結局うまく使えなかった。でも今回の二代目は違う。思い入れが違う。

 

パソコンを診てもらった。電源を入れても画面が付かないので、ひとまず見積もりに出すことになった。治るだろうか。

そんなことより、今電車に乗りながら文章を書いているんだけど、目の前に座っている人がおそらく中学校の頃の社会の先生のような気がする。あーやっぱりそうだなあ。休日だから新潟まで出掛けてきたんだなあ。いやあ。おれからは絶対に声をかけないし、相手も絶対におれのことは気付かないだろうけど、それがいいですね。腹減ったなあ。

パソコン

家に帰れば祖母が飯を作ってくれている。でも家にはまだ帰りたくなくて、どうしても食いたかったというわけではなかったけど寿司屋に入った。別にうまくない。なんだかんだ10皿くらい食べた。最初は、3皿くらい食べたら帰ろうと思っていたけど、なぜか気分が落ち着かなくて、別に食いたくもないはずなのに次々と手を伸ばした。別にうまくもない。熱いお茶を何杯も飲んだ。着ているジャンパーが鬱陶しく感じられるほど身体がじわじわと熱くなって、一層気分が落ち着かない。イライラしながら目の前のタブレットの会計ボタンを押して、財布を探す。バックに手を入れる。荷物の隙間に腕を伸ばす。ない。財布がない。やばい。そう思ってバックを抱え、あちこちチャックを開けたり閉めたりして、焦って財布を探した。でも、ない。いよいよやばくなってきた。店員さんになんとかお願いして、スマホでもパソコンでも担保に取って財布を家まで取りに行かないといけない。でもそんなのしたことない。いよいよ、やばい。気持ちが浮ついてクラクラしてきた。私はもう一度バックを探そうと、中に入っていたパソコンを取り出して、中をよく見ようとした。手に取ったパソコンをテーブルに置く…その瞬間、チャックの開いていたカバーからパソコンが滑り落ち、まともに床と衝突する。バシーンという音が寿司屋に響く。慌ててパソコンを開く。電源がつかない。私はいよいよキャパオーバーになって、「大丈夫ですか?」と聞いてきた店員さんに「いやほんとまじでいや」みたいなよくわからないタメ口を聞いて、そっとパソコンを閉じた。自己嫌悪が襲ってくる。財布はリュックの底にあった。レジへ向かう。イヤな汗が額に吹き出てくる。もうおれは自分がイヤで仕方なくなって、今まであった色んなイヤなこととかそういうものをいっぺんに思い出して、ああ、おれは、おれはと思いながら、自転車に乗って、さっきまでいた本屋にもう一度戻って、ベンチに座ってブログを書くことにした。パソコンを買った話はここに書いてないけど、おれは今月、いろいろあってパソコンを手に入れたんですよ、このブログを読んでいる皆さん。得たものは失われる。きっとおれは何かがおかしい。このままの私で、私は生きていけるのだろうか。許してほしい。怒らないでほしい。私はいつも自分の中の何かに向かって懺悔するように、このブログを書いてきた。起こったことをなるべく自分の言葉で。それは、自分一人で生きていくにはあまりにも自分が弱かったからで、頭の中で七転八倒する自分を何かに見守ってほしいと思っていたからなのかもしれない。おれはまだ親にはなれないなと思う。一生なれなくても、別に構わないのかもしれない。おれはどうして生まれてきたんだろう。

子どもの頃から、おれは自分自身の不幸な身の上を他人に語ることで、小説かドラマに出てくる悲劇の主人公みたいに振る舞って人気者になれるんじゃないかと、心のどこかで思ってきた。たぶんそれはいいことじゃない。苦しいときほど、他人のアラがよく見える。私が誰も信用できなかったのは、皆が皆、それぞれに都合のいいやり方で自分を誤魔化していて、それに気付いていないフリをしたり、本当に気付いていなかったりするからだ。繋がりなんてものは、本当はどこにもない。本当はみんな孤独だ。一人でいても寂しくない、なんてウソだと思う。頭の中に幸せだったときの記憶があるから、一人のときも耐えられるんじゃないか。ああ、パソコンは治るんだろうか。なんかもうやっていける気がしない。楽しい人生を送りたいなんて贅沢は言わないから、せめて穏やかに日々を終わらせていけたらと思う。明日ビックカメラに行こうか。どうすんだおれ。あーあ。あーあーーあーー。何もできる気がしない。車に乗ったら他人を轢き殺すんじゃないか。仕事をしたら、重大なミスを犯して殺されるんじゃないか。あーーあ。あーーーーあ。あーーーー。

 

「おれの目を見ろよ!」「おれの話を聞けよ!」と叫びながら、父、祖母、祖父、叔母のいる前で実家のリビングを破壊し尽くす夢を見た。私がいくら話をしても無視されるので、全員の視線が集中しているテレビにまず蹴りを入れた。これだけ叫んでいるのにテレビなんて見ている場合かよ!ふざけんな!と思っていた。しかし、私の話はまたも無視され、黙々と壊れたテレビを直しにかかる父。祖母は椅子に腰掛けながら、半分だけになった画面をじっと見つめている。私はさらに怒りが増す。私を無視したままスタスタと父が台所へ修理道具か何かを取りに行くのが見えたので、私は後を追いかけて「いい加減にしろよ!」とさらに怒号を浴びせかける。すると父が振り向く。無表情で、ぼんやりとした目でこちらを見ている。手にはナイフを握っていて、意味のわからない言葉をなにやらブツブツと話している。私は怖くなって目を覚ました。そういう夢だった。

昨日も精神科に行ってきた。これで3回目になる。今はまだ心理検査の段階なのでなんとも言えないところはあるけれど、自分が自分に対してどのように思っているのかということをまるごと吐き出させてくれるような場所ではない気がしている。向こうの手順に沿って話をすることしかできないので、自分の気持ちや考えを細切れでしか伝えられない。今日も行くことになっているけど、正直、乗り気がしない。臨床心理士の方とならもう少し話をしてみてもいいと思うが、精神科の先生と実りのある話ができるかどうかは疑わしい。このブログに自分の気持ちをぶつける方がよっぽど治療効果がある気がする。

送り迎えをしている車中で、叔母と口論になった。私の今後について叔母が話す内容に納得できず、「まあ、これは世代の問題なので分かり合えませんね」みたいなことを言うと、「いや、でも現実はそうだよ現実は」と強めに返された。叔母の言う現実とは「生きるためには税金と年金と健康保険と生活費を払わなければならない」ということで、「その辺をあなたはしっかり考えているのかい」と私に聞いてきたのだった。言っている内容自体は正論だと思うけど、正論を振りかざして私を論破しようとしてくる口調が癇に障ったので、私は「どうしてあなたに説教されなければいけないのですか」と言葉を返した。叔母も、前に進んでいこうとする私の気持ちに寄り添ってくれるわけではないのだなあ、と思った。最後に私は「あなたの言う現実と私が思う現実は違いますから」と言った。どうせ通じないだろうなとは思ったけど、それ以外に言葉が思いつかなかった。「いやそんなことない、現実は、現実はどうするの?」とまた叔母は言う。こういうときに、いちいち相手にしないで上手くかわすにはどうすればいいんだろう。自分の考えが頭から正しいと信じ切っている人とは、何の話もすることができない。

 

精神科から帰ってきた。診察は30秒で終わった。「それからお変わりないですか?」と尋ねられたので、「はい、ないですね」と答えたのみだった。診察料は1210円だった。どうだかなあと思いつつ、そんなものかもしれないなあとも思う。

仕事をするとか、大学で勉強をするとか、他人と楽しく交流するとか、自分で何かを表現するとか、そういう選択肢が目に浮かんでこないほど精神的に不安定だったときとは違い、今はずいぶんと落ち着いた気持ちでいられる時間が増えてきた。何か違和感を感じたら、それをなるべく言葉にして吐き出してしまえばいい。ぶちまければいい。ただ、なるべくなら、ぶちまけ方を自分で調整できるようになった方がいいのは言うまでもなく、その辺がこれからの私の課題になっていくだろうと思う。スムーズにそつなく当たり障りのない会話を和やかな顔で自然にできるようになること。その先にしか賃労働はない。

他の人たちは目の前にいる人といちいち本気でコミュニケーションしようとしているわけではないらしいということを、最近になってようやく気付けるようになってきた。皆、あまり目を合わせて話をしていないことに始まり、その場で本当に自分の思っていることや考えていることを口にしようとしてないようだ。愛想笑いでもして適当にやり過ごせばいいやと思っているのか、どうでもいいようなことをさも興味があるかのように話したりしている。中には、私から見れば本当にどうでもいいとしか思えないようなことに本気で熱心になっている人もいる。というか大半はそうだ。そういうよくわからない人たちが織り成す空間で私が違和感なく溶け込めるようになるためには、自分の抱えるどぎつい感情を何らかの形で消化させるか、それとも内に秘めて何も感じていないかのように降る舞うしかない。後者はテクニックが必要なので、当面、まずは前者をやり尽くすしかない。ぶちまかすしかない。

(更新中)