横浜にて

風邪を引いてしまった。左後頭部が10秒に一回くらいズキッと痛んで、顔が歪む。こういうときに楽しいことを考えようとしたって無理な話で、どうしても暗い方に気分が傾いていく。今は自分を癒すことを第一に考えたい。今はなによりも自分で自分を大切にする時間を持ちたいと思う。

風邪を引くまでの経路を考えると、なんというか、今までの自分の生き方というか考え方というか他者との接し方というか、そういう何か根本的な部分が間違っていたのかもしれないという思いに駆られる。今までの私は自分を殺して相手に合わせることばかり優先させてきたのではないか。自分を大切にできていなかったのではないか。その結果として他者すらも大切に扱えていなかったのではないか。頭や心より体の方がよっぽど自分のことをよく知っている。しばらくの間、頑張ろうと思ったって頑張れない今の状態でいることが、今の私にとって必要な何かを知るきっかけになるかもしれない。

最近一つ思うことがある。この世の中にはいろいろな人間がいる。それぞれがそれぞれなりのやり方で生きている。誰の生き方が正しく、誰の生き方が間違っているということはないはずなのに、ずっと一人で生きていけるほど強くはいられない人間たちは徒党を組んで集団を作り、その集団の中で規範とされるある一つの生き方を共有することによって、まるで自分が正しい存在になったかのような気分に浸る。自分が正しいと思いたい。その欲望から人は逃れられない。

完璧な人間はどこにもいない。誰もが欠落を抱えていたり、過剰さを持て余していたりする。過剰さは欠落の裏返しだ。欠落を埋め合わせようとして人は過剰になり、自分の過剰さは他者の過剰さとぶつかり合う。ある人間の過剰さがある人間の欠落と結び付いて安定的な関係を築いたり、同じタイプの過剰さを共有する者同士が仲間になって安定的な集団を作ったり。そういう風にして人は関わり、社会というものは成り立っているのかもしれない。人と人とはどのように関わり、どのように距離が生まれていくものなのか。欠落、過剰さ、そしてそれぞれの相性のようなもの。その人にしか持ち得ない独特な思考の偏りみたいなものが、その人の中のどこに起源があるのかを考えさせられることは多い。

自分にとって大切なことが、他の誰かにとっても大切なことであって欲しいと、人は思う。その誰かが自分にとって大切な存在であればあるほど強く思う。けれど、そうでなかったとき、その人は目の前の他者をどう思うだろうか。

相手のやり方を否定して、自分のやり方を貫くのか。それとも自分のやり方を否定して、相手のやり方に委ねるのか。私はどのどちらだろう。相手のやり方を否定できるほど強い確信が自分の中に見つからないから、きっといつも自分のやり方を探しこまねいているうちに、相手のやり方に合わせるしかなくなっているのだろう。いつまでもそれでいいのか。相手のやり方に合わせている内に自分のやり方を見失い、自分にとって大切なものを気付かぬうちに明け渡すことになってはいないか。

自分にとって大切なことはなんだろう、と、ここまで考えて、ふと思う。今の自分にとって譲れないもの。間違いなく大切だと思えるもの。これがなければ生きられないと思うもの。そんなものは自分にない、と、言い切ってしまえるほど強い確信も、今の自分にはない。それでも今の私を作っているのは、今までの私と関わってくれた他者なのだということを思わずにはいられない。他者とどのような関係を築くかということが私の全てだ。そしてだからこそ、私は他者に自分の全てを明け渡すかのような子供じみた態度を取ってはならないのだと思う。

自分の発言に責任を持つこと。自分の態度を一貫して揺るがせないこと。守るべきところは守り、場合によっては他者と衝突することを辞さないこと。今の私にできないことばかりだからこそ頭に浮かんでは言葉になる。悩んだまま、迷ったまま、考え込んだままの姿では、人は他者の前に立ってまともに話をすることさえできなくなる。自分の欠落を過剰さで誤魔化すのでも、他者の過剰さを安易に退けるのでもなく、どうすれば私は他者と丁寧に関係を築いていくことができるのだろうか。まずは寝て身体を休めたい。体調が良くならなければ始まらない。

福岡にて(5)

天神駅付近ウエストにて

居場所がなくて、回遊魚のように地下街の同じところを歩き回っていた。回遊魚のように、という比喩の使い方がこれで合っているのかどうかは知らないけれど、とにかく寒い中ずっと歩き回っていたんだよということを私は言いたい。こんなとき一緒に「疲れたね」と言い合える誰かがいれば、それだけで気持ちはたいぶ変わるのだろう。しかし私にとってのその誰かは数年前からこの日記になっているので、遠慮なくここに吐き出したい。疲れたね。

今朝は、諸事情で昨夜宿泊したネットカフェを午前5時頃には出発しなければならなかったので、かれこれ2時間以上は歩いていたことになる。暖かくて、座れて、なるべく静かで落ち着いたところを探していたのだが、まだほとんどの店がシャッターを閉めている早朝の都会にそんな都合の良い場所があるはずもなく、立ち止まると寒いから、ただただ歩き続けているしかなかった。「24時間営業」という文字が書かれた看板に導かれて、ようやく寒さを凌げる場所にたどり着いたのは午前7時過ぎ。カウンターのテーブルは付着した油分が拭き切れておらず、触るとベタベタして不快だった。更にさっきから隣りで話をしている二人組の女性たちの声が大変うるさく、聞きたくなくても聞こえてくる会話の内容も大変お粗末だったので輪をかけて不快になった。眠気や疲れもあるのだろうが、都会にいるとものすごい勢いで人間を嫌いになっていくのを感じる。よくない。

福岡空港にて

空港に着いた。そのまま2時間くらい適当に街をぶらぶら歩いてから、さらに歩いて空港まで向かったので、いい加減もう足がジンジンしている。今回の放浪を締めくくる最後の追い込みという感じがあった。時刻は13時8分。飛行機の出発時刻は16時40分なので、まだまだ時間はあるけれど、適当に座ったこのベンチからはもう一切動きたくないと思う。疲れた。

 

 

 

電車にて

19時43分。成田空港から横浜の菊名駅を目指して電車に乗っている。16時半頃に福岡空港から飛び立った飛行機は、さきほど無事に成田空港へと到着した。機内では何故かとても深く眠りに就くことができたので、先程と比べてかなり元気になった。

元気になったときに元気じゃなかったときの自分が書いた文章を読むと、自分が恥ずかしくなるというかもっとしっかりしろよと思う。でも、そこで私がしっかりした文章をここに書きはじめてしまったら、自分の思ったことや考えたことを誰にも気兼ねなく思い切り解放できる場所がこの世からどこにも無くなってしまう。そんなことがあったら私は生きていけない。自分で自分の首を締めるようなことはしたくない。弱音や不安は感じた瞬間に言葉にして外へ吐き出す、それが私のやり方だ。みっともないかもしれないけれども、その方が生きやすくなるならそうしたい。美しくあろうとして生きるのに苦しむくらいなら、みっともなくてもただ漫然と生き続けていくことの方を選びたい。

(更新中)

福岡にて(4)

郊外のショッピングモールにて

昨夜、福岡に在住の知人Yさんからご連絡があって「今夜一緒に夕ご飯を食べませんか?」とのお誘いをいただいた。昨日は財布を落とす一件があってから帰りのバスや航空券を調べる気力を完全に失い、最寄りのカフェで閉店時間ギリギリまで灰色になっていたので、連絡をいただいたときは嬉しかった。どうも私は都市にいると自分を見失いやすいようだ。待ち合わせは中心部から三十分ほど離れたところにある駅前のロータリーで、今はそのすぐ近くのショッピングモールのフードコートで時間を潰しているのだが、どこにでもあるショッピングモールのどこにでもあるフードコートという感じが本当に居心地が良くて、いつまででも居てしまいそうな安らぎを感じている。このショッピングモールは地元のショッピングモールによく似ている、というかショッピングモールだからどこも同じに決まっているのだが、この文化も人間味も地域性もへったくれもない空間にこそノスタルジーを感じてしまうのは、やはり私が初めからそういうものに縁がない土地と時代と環境に生まれ育った人間だからなのだろう。ホッとしたので、フードコートにあったリンガーハットで好物の皿うどんを注文する。

Yさん宅にて

午後3時半過ぎ頃、Yさんが車で迎えに来てくれる。ご自宅にお招きいただき、基本的にはソファの上でゆっくり過ごさせていただきながら、数日前に亡くなったというハムスターの飼育ケースや回し車や生前エサを置いていたと思われる小皿を水で洗って綺麗にするという仕事に従事して時を過ごす。19時頃、共通の知人であるTさんが合流して、大人三人と子供二人で夕食を囲む。22時前頃にご自宅を後にして、天神駅付近までTさんに車で送り届けてもらった。

天神駅付近マクドナルドにて

昨夜、クソみたいな漫画喫茶に2000円も支払ってしまったということもあり、今夜はネットカフェに泊まるかどうか躊躇している。いまどき1600円くらい払えば、シャワーも洗濯機も利用可能な清潔で居心地の良いゲストハウスに泊まれるというのに。昨日は本当に判断を誤ったと思う。23時過ぎ、一旦、深夜2時まで開店しているマクドナルドに入店して、日記を書きながら今日一日を振り返る。

 

今日は、久しぶりに他者とコミュニケーションを取ったと言える一日になった。

まず。突然お会いすることになったとはいえ、夕飯をご馳走してくれるというYさんに手土産の一つも持たずに会う訳にはいくまいと思って、今日の昼頃、プレゼント用の切り花を買いに天神駅近くの花屋を訪れた。花屋に入店すると、しばしば店員さんと何気ない話をする展開になる。今日も店員さんに「どのような花をお求めですか?」と話し掛けられたので、その流れで軽く言葉をやり取りした。

見ず知らずの人と即興で会話を噛み合わせることができるかどうかで、その時の自分のコンディションみたいなものをある程度把握できるような気がする。今日は店員さんがとても良い人だったということもあるが、心地よく話をすることができた。必要なことを尋ね合うだけでは味気ない会話にしかならないが、余計なことばかり話していたら収拾が付かなくなる。自然体で、けれど丁寧さを忘れないよう気は抜かずに、なるべく相手の目を見ながら、話の内容より声色で気持ちが伝わるよう心掛けて話をした。花屋にも以前のようにドギマギせず入れるようになった。これも一つの大きな成長だ。

もう一つ印象に残っているのは、お邪魔したYさんのご自宅で会った二人兄弟のご子息と話ができたことだ。子供とはいえ男同士。すでに何度か顔を合わせたことはあるけれど、彼らがまだ私に対して少なからず警戒感を抱いているのはなんとなく察しが付いていた。というより私の方もいまいち彼らとの関わり方が分からずにいた。私もまた心のどこかで彼らに警戒心を向けていたのだろう。命令口調で上から抑えつけるのでも、猫撫で声を出して迎合するのでもなく、あくまでも私自身の態度は一貫して崩さないまま、どうやって彼らと対等に関係を築くことができるのか。齟齬は微妙で、そのままにしておくこともできたくらい微かなものだったけれど、最初に沈黙の突破口を切り開いてくれたのは彼らの方からだった。

まず上の子とは、拳と拳をぶつけ合うことによって親睦を深めた。彼は気分が良くなると唐突にパンチを繰り出してくる。私は彼のパンチに対して、こちょこちょで以って対抗することにした。パンチをされたらすかさず彼の脇腹にこちょこちょをする。すると、ケタケタと笑い声を上げて(くすぐったいからというより楽しいから笑っていたように私には見えた)、今度は私にこちょこちょをされないよう間合いを測りながら拳を構えるではないか。そうだ。その間合いだ。その間合いが人と人との距離感なんだ。もしかしたら私は彼になにか大切なことを教えてあげられたのではないかと傲慢にも思わず錯覚しそうになった。が、違う。むしろ私の方が彼に教わっていたのだった。やられたらやり返さなければならないこと、嘘は全て見抜かれていること、そして、戦いによってしか育まれない友情があることを。

下の子とは、互いの知識を伝え合うことによって親睦を深めた。彼はソファに腰掛けてじっとユーチューブを眺めていた。画面を覗くと『青鬼3』のプレイ実況動画が流れている。『青鬼』なら知っている。初期版なら私もプレイした経験がある。しかし『3』が出ていたとは知らなかった。素直に気になったので「『3』が出ているんだねえ」と話をすると、彼は得意気に「そうだよ」と答えて、懇切丁寧に『青鬼3』の解説をしてくれた。そうか、『3』では二体の青鬼が同時に現れることもあるのか。「青鬼ゾンビ」なる新キャラクターも登場するのか。「青鬼ゾンビ」はゾンビだから少し歩くのが遅いのか。そうかそうか。なにはともあれ『青鬼』を介してなら話ができたというそのこと自体が嬉しかった。真正面から顔を突き合わせて話そうとすると、照れ臭くて何を話したらいいか分からなくなるけれど、関心のあることを通じてならいくらでも会話ができる。しかしよく考えたら大人だって同じではないか。『青鬼』が、政治やら経済やらパチンコやらカメラやら映画やらワインやらゴルフやらに置き換わるだけで、本質的な構造は何も変わらない。人は誰だって自分のしたい話がしたい。またしても大切なことを教えてもらったような気がした。

天神駅前ジョイフルにて

マクドナルドが閉店時間になったので、ネットカフェを探しに外を歩く。あまりの寒さに嫌気が差して、すぐ近くに見つけた「24時間営業」という文字が輝くジョイフルの看板に蛾のように吸い寄せられていった。今夜はここで夜を明かそう。

(更新中)

福岡にて(3)

天神駅前漫画喫茶にて

この音はなんだろう。すぐそばで、聞き覚えのある、不潔な感じのする、破裂するような激しい音が、聞こえなくなったかと思うとまたすぐに意識の壁を突き破って断続的に聞こえてくる。それは人間の音だった。人間の喉を通り過ぎていくときの何かだった。粘り気を含んだそれは、初めに生まれた勢いを一度も失速させることなく外へと吐き出されていく。目をつむっても聞き苦しさは無くならない。むしろ意識が鮮明になるにつれ、音の正体に気付きはじめて不快さは増していった。その音がいつまでも無遠慮に繰り返されるのに苛立って、私はいつの間にか音の聞こえてくる方へ敵意を向けていた。

目を覚ますと、ディスプレイの明るすぎる白い光が真っ先に目に飛び込んできて、私は自分が今漫画喫茶にいるのだということを思い出した。音の正体は隣りのブースに滞在している人が放つ咳だった。どこかの男が痰の絡んだザラついた咳を何の制御もなく外へ吐き出していくのを私は聞いていたのだった。イヤホンをはめてこの世界の全てに対して栓をする。ブログを開き、この苛立ちを原動力にして今日の分の日記を書きはじめることにした。目が覚めたのは午前3時過ぎ、しかしここまで書き終えるのに思いの外時間が掛かって、今はもう5時8分だ。スマホを握った手の感触から、私の手や顔の皮膚の表面に軽く脂が浮いているのが分かった。近くに銭湯はあるだろうか。疲れてはいないが、快調ではない。空気が臭い。この場所が、息を吸うだけで汚れていくような醜悪な気配に満たされた環境であることは疑いようがなかった。人間が眠ってはいけない場所で、眠ってしまったような気がした。

時刻は7時半。滞在が8時間を超過する前にそろそろ出発しようと思った。しかし身体は一度横になった心地良さを忘れることができず、溺れるようにまた眠りの中へ引きずり込まれていく。結局、目を覚ましたのは午前9時前。痰の絡んだ咳の音はまだすぐそばで変わらずに聞こえ続けていて、時折吐血するかのように激しく咽せたかと思うと、「ピェッ」という口に溜まった粘ついた液体を勢いよく外へと吐き出す音も聞こえた。汚らわしかった。この男はきっと真っ当に生きていくのに必要な最低限の客観性を気にする心持ちさえどこかに捨ててきたのだろう。不衛生極まりないこの場所でコンタクトレンズをはめる気になれず、ぼやけた視界の中からなんとか便所のあり方を指し示す標識を探し出し、矢印の導く方へと早足で向かった。

便所の個室にはなぜか薄汚れたような衣服が乱雑に掛けられていて、蛇口の周りは水浸しになっていた。嫌悪感を全身で感じながら、コンタクトレンズを指に乗せ、まぶたを開いて眼球に乗せる。すると個室の中からカサカサカサという微かな音が途切れなく小刻みに聞こえてくるのを感じて、すぐに私は自分の耳にこの世で最も聞きたくない音が聞こえてきているのに気が付いた。一刻も早くこの場所から立ち去らなければならない。人間の下卑た部分を煎じ詰めたような場所だと思った。料金は2040円。捨てるように金を機械に滑らせて出口ゲートを後にした。

天神駅タリーズにて

早朝のタリーズには人がいなかった。自分の髪やネックウォーマーが、さっきまでいた漫画喫茶で燻されてタバコの臭いがいつまでも付きまとってくる。呪いを掛けられたようだ。

(更新中)

 

福岡にて(2)

財布を失くす

汗が吹き出て止まらない。本当に喫茶店のご主人が素晴らしい方で良かったと思う。警備スタッフの方も、インフォメーションセンターの方も、福岡県民も、素晴らしい人ばかりで本当に良かった。死ぬかと思った。生きていて良かった。

さきほど少し気分を変えようとタリーズまで歩いて行ったのだが、レジでアイスコーヒーを注文した後、リュックサックの中をいくら探しても財布がまったく見つからない。不安が胸の底から湧き出してきて、やばい、本当にこれはやばいと思う。店員さんにしどろもどろで「すみません財布を無くしてしまったみたいで今お金を払うことができないのですが注文を無しにしてもらってもいいですか?」という趣旨のことをつっかえづっかえ話して急いで店を出て走る。店員さんが笑顔のまま硬く表情を変えなかったところを見るに、私の言葉は彼女に届かなかったのだろう。冷たい視線が身体を刺す。けれど今はそれどころじゃないと、熱い心がそれを跳ね返す。全身から嫌な汗が吹き出すと同時に「なんとかしないと本当にやばいことになる」という至上命令が突然頭上から降ってきて視界が一気にクリアになるのを感じる。ぼんやりと考え事ばかりしていた数分前が嘘みたいに、世界が緊張感で張り詰める。

頭の中にさまざまな思いが浮かぶ。財布を落としている人がいたら拾いたいなんて悠長なことを言っていた自分のクソさ。クレジットカードとキャッシュカードを急いで凍結しないとやばいという不安。お金がなくなったらどこで眠ればいいんだろう。どうやって帰ればいいのだろう。交番では眠らせてくれるのか。ヒッチハイクで帰るしかないのか。SNSで呼びかけたら誰かが手助けしてくれるのだろうか。財布はどこで落としたのだろう。少し前までいた施設のトイレか、それともソファがあったスペースなのか。廊下や道端だったら望みは薄い。まず交番へ行こう。ダメなら家族か頼りになる人へ連絡を取らねば。それにしてもまたやってしまった。また財布を落としてしまった。俺は普段からもっと緊張感を持たないとダメだクソ。何をやっているのか。クソだ。

そんなことを思いながら先ほどまでいた施設「アクロス福岡」へ着く。入った覚えのあるトイレに飛び込んでは個室を一つ一つチェックする、が、財布は全く見つからない。いよいよやばい。本当にやばい。しかしこういう時は不思議なもので、全身から汗を吹き出しながらやばいやばいと唱えている深刻な顔をした自分の横で「こういう瞬間を待っていた…!」と言わんばかりに変にテンションが上がっている自分もいた。尻に火が付くとはまさにこういうことかという具合に、そのときの私には兎にも角にも財布を探すという一つの強烈に明確な目的しか目の前になかった。しどろもどろになりながらインフォメーションセンターの女性に「この施設を通った際に財布を失くしたと思うのだが探してもらえないか」という趣旨のことを必死で伝える。取り乱している無様な男に一切共感することなくマニュアル通りに警備スタッフへ電話をしてくれるその女性の話しぶりには不思議な頼り甲斐があって、その会話の様子から「もしかしたら見つかったかも…」と淡い期待を抱きながら彼女が受話器を置くのを待つ。数秒の沈黙があった後「お名前と、落とし物の特徴を教えていただけませんか?」と訊かれたので「稲村彰人です黒の長財布です」と即答すると「それらしいものが警備スタッフの元に届いています」とのことで安堵と歓びで全身を震わせながらインフォメーションセンターの女性に感謝の意を伝え警備室まで走る。財布を受け取って警備スタッフの方に感謝の意を伝えて、インフォメーションセンターに戻ってふたたび女性たちに感謝の意を伝えて、警備室まで届けてくれた喫茶店のオーナーに感謝の意を伝える。ということがあったので取り急ぎ書いた!いやああああ本当に良かった!!!!!

(更新中)

福岡にて

ゲストハウスのラウンジにて

ジョイフルで無事に夜を明かした昨日の朝、高速バスに乗って鹿児島中央駅から博多駅へと移動した。車中ではほとんどの時間を寝て過ごした。博多駅に到着したのは11時過ぎ頃。駅構内で、待ち合わせていた福岡在住の知人Tさんと再会し、それから大変有り難いことにランチをご馳走になり、さらにTさんのお心遣いで手配していただいたゲストハウスへ案内してもらい、極め付けに夜はTさんと旧知の仲である方と共に名物の焼き鳥とお酒をご馳走になり…と、こうして書き出してみると私は本当にどれだけ他人様のお世話になって生きているのだろうと思う。後述する鹿児島におけるあの恵まれ過ぎた日々にしても完全にそうだが、最近はなんだか今の私には身に余る恩恵を授かってばかりで、相応の努力や苦労を自分に強いなければ釣り合いが取れないのではないかと、逆に不安になってしまう。なにより幸せになると文章を書く気が起こらなくなる。この旅先での日々について、日記ではファミレスで宿泊したり一日何も食べなかったりして無理やり自分を苦しめている様子を中心に書いているけれど、それは、そうでもしないとそれ以外の日々が余りにも度を超して恵まれ過ぎているために、文章として書き起こしてもただの自慢話にしかならないような気がしたからだ。「私は幸せだ」としか書いてない文章なんて誰が読みたいだろうか。少なくとも私は書きたいとすら思わない。幸せだったときがあるなら、それは、その時々に有り難くその幸せを噛み締めてさえいれば十分で、わざわざ第三者に見せびらかす必要なんて全くないと思う。もっと孤独になろう。孤独にならなければ表現はできない。本当の幸せは、きっと一人になったときに感じる寂しさを誤魔化すようなものではなく、むしろ一人になったときの自分自身をより確かに支えてくれるようなものだと思う。

と。そんなことを書いているが、果たしてこの文章の中にどの程度自分の本心と呼べるものが含まれているのか自分でも分からなくなってきた。手癖で文字を並べているだけでただいつもの思考回路をなぞっているだけなのではないかと自分で自分に疑心暗鬼になる。時刻は11時33分。そろそろ昼飯の時間だ。

櫛田神社の休憩所にて

ぜんぜん話は変わるけど、昨夜泊まったゲストハウスの受付の女性が非常に感じのよい方だったので思わず胸がキュンとしたという話を忘れない内にしっかりとここに書き止めておきたい。自分の気持ちに嘘を付かないこと。感じた気持ちをなかったことにしないこと。今の自分にできることはそのくらいだ。仕事だからとかではなく本当に純粋に喜んでくれているのではないかと見紛うような大変キュートな笑顔で応対して下さいました。素敵な笑顔でした。ありがとうございました。

アクロス福岡にて

あちこちをふらふら歩いていたら、無料でフカフカしたソファに腰掛けられる謎のスペースに辿り着いた。公園のベンチは風が冷たかったので助かった。

さっき思ったことを書く。さきほど街を歩いているときに、ふと、自分は誰かの役に立ちたいと思っているのだな、と思った。今の自分は既に満たされている。十分過ぎるほど満たされている。そしてこれ以上自分の内側を見つめ続けていても、おそらく答えは見つからない。今の自分に必要なことは、誰かと会って、話して、目の前で生きている誰かの心に自分の意識を向けることだ。日記を書いているときの私は、自分のことばかり考えて他者が見えなくなっている。私が求めているものは、きっと自分と他者の間にある。私にとって他者とは誰か。どこへ行けば他者に会えるのか。そんなことを考えながら空を仰ぎ、外の世界に目をやった。

ちょうど今誰かが財布を落として、それを私が拾ってやれたら。きっとそれだけで私は今日という日を気分良く終わらすことができるのだろう。けれでも、そんなに都合よく財布を落としてくれる人なんて見当たらない。都市の姿はどこであっても変わらない。誰もが足早に歩いては去っていく。それぞれがそれぞれにとって特別な今を生きているのだとしても、私の目には、群衆が群衆としてただ同じ空間に居合わせているだけにしか見えなかった。私が意識を向けるべき他者の影は、街のどこにも見つからなかった。

 (更新中)

鹿児島にて(2)

鹿児島市マクドナルドにて

2月19日の朝が始まった。時刻は6時19分。

昨夜は結局マクドナルドで夜を明かした。机に突っ伏して寝るだなんて学生の頃以来だったけれど、それなりに眠れたのでまあまあ体力は回復している。さて、これからどうしようか。予定は何もない。どこへ行こうと何をしようと私の自由だ。

「しょうぶ学園」という障害者施設がある。面白い運営をしているとのことで、以前から興味を持っていたのだが、昨日、車で鹿児島県内のあちこちを走り回っていたときに偶然「この先しょうぶ学園があります」という看板を見つけて、驚いた。あのしょうぶ学園は鹿児島にあったのか、と一人でドキドキしていた。そのときは皆も一緒だったので、興奮は胸に納めてそのまま通り過ぎていったのだが、せっかく鹿児島にいるんだったら行ってみたいと少し思った。とはいっても数年前にネットで偶然見かけただけなので、どんな場所なのかはよく知らない。以前、どこかの媒体にしょうぶ学園の園長をされている方が書いた記事が掲載されていて、それがとても面白かったという記憶がある。

例えばしょうぶ学園には、延々と木を彫り続けている人がいるそうだ。その人は何かを作るために木を彫っているのではなく、ただ木を彫るという行為そのものが純粋に尋常でないほど好きらしい。放っておくと一日中木を彫り続けてしまうので、当然ながら、その人は誰かが衣食住の面倒を見てあげなければ生きていけない。従来の施設であれば、その人の行為は実用性がないと見なされて、代わりに何か別のもっと「有用」な仕事をするように矯正させられたりするのだろう。けれどしょうぶ学園ではむしろ本人たちの好きなようにすることが奨励される。彫るのが好きだったら、好きなだけ彫らせる。その上で施設のスタッフの人たちが知恵を絞り、彫られた木をどうすれば活用できるのかを考える。本人達にしてみれば彫ることにだけ関心があって、それをどう活用するかには全く関心がないのだけれど、しかし今ではしょうぶ学園で数々の工芸品を販売したりレストランを運営したりアート作品を生み出したりしているらしい…というような、とりあえずそんな感じの施設だった。「目的を達成するために行為をする」ではなく「ただ無目的に行為をする、結果的にできたものが何かの役に立つかどうかは後からついでで考えとく」という発想の転換がいいなあと思いながら読んだ覚えがある。後で記事を探してリンクを貼っておきたい。今日はそこへ行くのもアリだなあと思った。

ところで今気付いたのだが、外は雨が降っていた。バスを探すのが面倒なので、行くなら歩いていこうと思っていたのだが、雨となるとやっぱり今日はあちこち出歩く感じの日にはならないかもしれない。

 

鹿児島市内デパートにて

午前9時。近くのドトールの開店時間が迫ってきたので一宿お世話になったマクドナルドを退散する。今日どう動いていくかを決めるためにも、今の私にはまず自分の心を落ち着かせる時間が必要だった。空は小雨になったり本降りになったりを繰り返している。雨の降らないタイミングを測ってドトールへ行きたい。Wi-Fiが使えてスマホの充電ができる場所へ行きたい。と思って地図を見ていたら近くに図書館があることを発見して、反射的に行き先を変更して近くまで向かう。が、今日は休館ということで入れなかった。大きくて立派な建物だったので、入れなくて残念だった。

図書館には入れず軽く雨にも打たれたが、街の雰囲気がいい感じで、歩いているだけでも少しずつ気分が良くなっていくのを感じる。ふらふらしてたら、ジュンク堂の看板を見つけたので反射的に店に入る。そして今は、店内の個室トイレに入ってこの日記を書いている。こうして書き出してみると昨夜からグダグダだなあと思う。でも、それも仕方ない。こういう風に心がザワザワしてどうしようもないときは、ただひたすら気持ちが鎮まってくれるのを待つしかない。本屋に入って仏教の本を一冊立ち読みするなどして過ごす。

デパートのベンチに座りながら日記を書く。なんとなく今日はもうこのままどこにも行かないのかなあという気がしている。実は昨日から、経済的にも精神的にも福岡へは明日発売する青春18切符で向かうのが一番いいんじゃないかとなんとなく思っていた。このままだとその線が一番濃厚だなあと思う。飛行機より新幹線より高速バスよりヒッチハイクより、鈍行が一番自分らしい気がする。

 

鹿児島中央駅前ジョイフルにて 

あれから、行く場所がないので銭湯に2時間半くらい滞在していた。鹿児島は銭湯から温泉が出る。しかも比較的都市部に。しかも値段は390円で。しかも私の入った所は無料のサウナ付き。しかも湯船が三種類くらいあって熱すぎることも冷たすぎることもなく素晴らしい湯加減の銭湯だった。落ち込んでいた体力はこれで完全に回復した。今夜もまだ宿を取らなくてもなんとかなりそうだ。

小雨が降る中、公園のベンチに座って、お土産に貰ったゆでたまごを食べた。それから少し歩いた先にあるコンビニのイートインコーナーでカップ麺と水を飲む。すると、いつも大変お世話になっている方から突然の連絡があって「青春18切符は、買えるのは明日からだけど使えるのは三月に入ってからだから気を付けてね」とのありがたい忠告をいただく。この連絡がなかったらどうなっていたことか。暖かい激励を頂いた弾みで、コンビニにて博多行きの高速バスのチケットを購入。しばらく歩いて駅前のスーパーのイートインコーナーに奇跡的に置かれていたソファに腰掛けて、一時の安らぎを得た。そして今は隣りのジョイフルから日記を更新している。24時間営業と書いてあるが、はたして本当に朝まで居ても大丈夫なのか不安でならない。外は雨が降り続いている。

〈更新中〉