7月10日(日)

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今日はなぜか「あいつブログ更新しないんじゃないか」と思われてるような気がするんですけど、はい、今日もおはようございます。ここ数日色々あって、逆に吹っ切れた気持ちでひたすら文字を打ち込んでいる私です。ジュンク堂のベンチに腰掛けながら、スマホの電池はあと7パーセント。さあどこまで書き尽くせるのか。そうこうしている間に6パーセントだぞ、大丈夫なのか。

皆さんお気づきのように、このブログではしばしば記事が泡のように現れては消えていきます。消えた日記は戻ってくるかもしれないし、永久に戻ってこないかもしれません。話し言葉で文章を書いている以上、基本的には流れるままに消えていくのが本来の姿であり、インターネット空間にそのまま永久にアーカイブされると考える方が、異常なことなのです。うんこと同じですね。

最近は意外にもたくさんの方に読んでいただいて、文章を書いている身としても非常に張り合いがあるのですが、「アクセス数」という単なる数字として浮かび上がってくる閲覧者の存在は、顔が見えないため、正直とても不気味で恐ろしく、言ってはなんですが、そんなに見ないでほしい!とすら思ってしまうほどです。でも、いつも見てくれてありがとうございます!(引き裂かれる自我)。このブログは基本的に1日経って見返したとき「これは問答無用で気持ち悪いな」と判断した記事は、著者によって水面下に沈められる仕様になっています。

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実は最近、自分が自分の記事をどのようなときに「気持ち悪い」と判断するのか、その基準が少しずつ分かってきました。以下に書いてみます。

基準①「他者の視線が意識されているか」

ブログの最初を挨拶から始めるようにしたり、文末をなるべく敬語で終わらせたりすることによって、最近、徐々に自分なりにしっくりくるブログの文体を確立しつつあります。いずれも書きながら「大丈夫なの?ここは誰が見るか分からない場所なんだよ…」と自分に問いかけ直す効果があり、以前『である調』で文章を書いていたときよりも「なにこれ気持ち悪い」と思う率が減りました。

基準②「実際に経験したことをベースに書いているか」

クーラーの効いた部屋で一日中布団に包まりながら、頭の中の材料だけで文章を作っていると、すぐに煮詰まって、文章が歪になってくることが分かってきました。最近の私の感覚では文章を書くのはあくまで既に起きた出来事を整理するのに向いた行為なのであって、「これからこうしよう!」みたいな文章はあまり意味がないのかもしれないなぁと思うようになりました。何かを「しよう!」と思ったのであれば「してみた結果どうなったか」を書いた方が書きやすいし、気持ち的にも自然な気がします。

基準③「文章の送り主を誤っていないか」

文章を書く上では、伝えなければならないことを伝えなければならない相手に伝えるということが、とても大事なような気がしています。例えば毒親問題に典型ですが、親のいない場所で延々と親の悪口が書かれた文章を書いても、それを読む側は「かわいそうだったね」という感想しか持ち得ず、一部の同じ問題を抱えた人にしか共感できない文章になってしまいます。誰かに不満があるのなら、直接その人だけに届くような言葉を考え出すのが最もシンプルであり、大変だけど、意味のあることのような気がします。もちろん否定はしませんが、「書き手と読み手で同じ共通敵を作り、その人のいない所で一緒になって叩く」みたいな文章は、なるべく書きたくないなと思っています。

基準④「自分の気持ちに忠実になって書いているか」

自分の書いた文章を後から見返してみると、「何が書いてあるか」より「どんな気持ちで書いていたか」の方が強く印象として残るのではないかと思うようになりました。「なんか読みづらいな」と感じる文章は、書いてあることに書いていた時の気持ちがうまく乗せられていなくいような感じがして「いや本当はこう言いたいんでしょ?!」と言いたくなってきます。本音と建前が明からさまに離れてしまっている感じが、気持ち悪さを醸し出すみたいです。

今のところこんな感じでしょうか。とはいえこんな基準は私以外の誰の役にも立たないので、さっさと話題を切り替えます。

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話題を切り替えたいところですが、実はもう書くことがなくなってしまいました。今日は参議院議員選挙があったからそのことについて書いていてもいいんだけど、先に挙げた基準から考えて気持ち悪い文章が出来上がりそうなので、やめておきたいと思います。いやでもそうなってくるとまじで書くことがないぜ。

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やーーどうしよう書くことないですよ。いやありましたよ、今日も本当に色々大変なことが。でもそれは書けないですよ。書けない。

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あーーだめだ、もーー今日はこのまま終わらせちゃおう。おつかれさまでした。

 

《つづく》