8月8日(月)

胸がソワソワして眠れないので、今日もまた一人で作戦会議でもしようと思います。

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「ホームシック」って言葉があるけど、生まれ育った地元を離れて、おれは故郷が恋しくなるんでしょうか。まだ新潟を離れて日が浅いからなんとも言えないんだけど、予備校の寮に一年間住んでいたときも、二年間大学の近くのアパートで一人暮らしをしていたときも、徳島で10日間インターンシップに行ったときも、一年間駅前のシェアハウスに住んでいたときも、一ヶ月熱海に滞在していたときも、「寂しい」と思うことはあっても「故郷が恋しい」と思うことはありませんでした。そもそも自分には「ホーム」と呼べる場所があるんでしょうか。去年の暮れにシェアハウスがなくなってから、半年以上実家に戻っていたことになるけど、その間ずっと感じていたのは「ここは父の家であって自分の家ではない」ということでした。

私の生まれ育った家庭は普通と少し違っていました。私がまだ2歳か3歳のころ、川の事故で兄が、乳がんで母が亡くなりました。物心がつく前だから、当然、私には二人の思い出はほとんどありません。小学校に上がって、皆にはお母さんがいるけど自分にはいない、ということに気付いてからも、「悲しい」というよりむしろ、「可哀想だと思ってもらえて嬉しい」と思っていました。父は、とても一人では私と姉を育てられないと、亡くなってからすぐに家族で祖父母の住む家に引っ越しました。だから、実質私が生まれ育ったのは、祖父母の家です。保育園に通っていた頃から高校を卒業して予備校の寮に引っ越すまで、私はほとんど祖母に母親代わりになって育ててもらいました。

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祖父と父は仲が悪くて、家にはいつも独特の緊張感がありました。今思えば、兄と母のこともそうですが、祖父との関係や職場での人間関係で、父は精神的にかなり弱っていたんだと思います。家に父の存在感はなく、ささいなことで癇癪を起こす祖父と、そんな祖父を憎みながら身を粉にして家事をこなす祖母と、姉と私で生活していました。書くべきことが多すぎるので、一人一人についてはここで詳しく触れません。考えれば考えるほど、それぞれに止むに止まれぬ事情があって、皆、精一杯に生きていました。私が巣立ったのを最後に、父は祖父母の家を去り、本来の家に戻りました。だから、私には帰るべき家が二つあります。そしてそのどちらにも複雑な思いがあって、確かに居心地はいいのだけど、「孫」としての私、「子」としての私、としてしか生きられない息苦しさもまた感じてしまいます。

昔のことを振り返ると、小学生だったころに姉と遊んでいた心理テストのことをよく思い出します。そのテストは、「〜しい」で終わる形容詞を思いついた順番に10個書く、というもので、隣あった形容詞から連想する言葉を樹形図のように重ねていって、最後に一つ連想した言葉が、今の自分が一番欲しい望みになる、というものでした。なんの信憑性もないのですが、その時の私は、最後に「家族」と書いていました。子供ながらに姉とはよく「うちの家族はなんかヘンだよね」という話をしていたのですが、私にとって、家庭は必ずしも心から安らげる場所ではありませんでした。後に分かっていくことですが、どうやら祖父や祖母、それからその下で生まれ育った父や、亡くなった母の家庭環境も、どこか歪さを感じるものでした。誤解を恐れずに言えば、彼らは、世間に抑圧されるような形で社会に出ていったのではないか、と思います。そして彼らは、自分がされてきたことを、私にもしようとしていました。誰かが悪いということではなく、誰もが不完全でした。

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数年前、自分が発起人となって「リバ邸」というシェアハウスを作ろうとしていたときがありました。そのころ流行だった「居場所」という言葉が、当時の私には、まさに自分が欲しているもののように感じられたからです。当時は、以上のような自分の家庭環境のことについて、一番悩んでいた時期でもありました。

しかしよく考えてみれば、見ず知らずの人を無条件に受け入れてくれる人なんて、現実にいるはずなく、むしろ発起人となったからには、自分が誰かを受け入れる側にならなければいけませんでした。カウンセラーでもなければ、お金を稼いだこともない。まして友達さえ一人もいないような人間が「駆け込み寺」という名目で人を受け入れるなんて、できるはずありませんでした。個人的には「リバ邸」というネームバリューを使って様々な人に出会ってうまい汁を吸ったくせに、結局は、自分の中で気持ちが折れてしまい、多くの人に迷惑をかける形でフェードアウトしました。

本来なら、学部を変えるなり、休学するなり、バイトの面接に行くなり、大学の相談室に行くなり、心療内科に行くなりするべきであり、あらゆる意味で間違っていました。でも、やってよかったとは思います。あのとき、大学の食堂の隅で震えながら一人ぼっちで最初のメールを送ったときの興奮は、今でも覚えています。

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私がシェアハウスを作ろうとしていたのは、小学校の頃の心理テストで「家族」と書いたことと、どこか通底していたと思います。私はそこで無条件に承認されることを求めていたし、仲間と連帯して何か楽しいこと・生産的なことができればと思っていました。でも、よく考えたら、私は自分が承認されることばかりを求めて、リーダーとしてコミュニティをまとめようとしなかったし、誰かが面白いことをし始めたら、ただそれに乗っかろうと思っていただけでした。

最近、誰かと一緒にいたいと思ったら、リスクをとって自分から声をかけなければ、何も始まらないのではないか、ということをよく思います。今まではたいてい誘われるがままに生きてきたけど、どっかしらで自分から動き出さない限り、自分の人生は開けないような気がしてきました。だからってどうするということもないのだけど。いや本当におれは何がしたいんだろうなぁ。

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…みたいなことを考えていたら、昨日はあまり眠れませんでした。いつものことですが、今日はバイト初日ということで、緊張もありました。偉い人にうまく挨拶できなかったりとか、意外に覚えることがいっぱいあって大変だったりとかしながら、汗だくになって清掃・調理の補助などを終え、シャワーを浴びてから今後の予定を企て、自分で自分の人生をなんとかするってことがこんなに大変なのかと痛感した後、知り合いが住んでいるシェアハウスに連絡を取ったり、気晴らしにすれ違う人全員の肩にわざとぶつかる妄想をしながら街を歩いたり、路上でチューしてるカップルを見てるおじさんを見たりしてるうちに、なんやかんやで1日が終わりました。やーーーいい一日でした。

《つづく》