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8月19日(金)

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 相手の心に踏み込む勇気。 - みっつ通信

友人のブログに書かれていた内容がそのまんまおれすぎて、帰り道に思わず足を止めて、道端にしゃがみ込みながらブログを更新しているおれですこんばんは。そうだよなぁ。本当にそうだよなぁ。第一歩はまず“相手の心に踏み込む勇気を持つこと”だよなぁ。いやぁ。がちがちにシールド張りながら「オラオラ!お前らもっと踏み込んでこいよ!」って思ってても、そりゃあ誰も相手してくれるはずないもんなぁ。いやはや。しかしとは言っても。とは言ってもそれがなかなか…というところなんですけどねぇ。でも。分かっていても難しいことは、結局、最終的には自分で勇気出して乗り越えるしかないもんなぁ。いやぁ…。

と。勝手に一人でグサグサ刺さってしまう夜でした。自分としては、文頭に「友人」と勝手に名乗ってしまった辺りが、今とても気がかりなのですが、ここは“相手の心に踏み込む勇気”でもって、敢えてそう呼ばせていただきたいと思います。本来なら自分は「いや人間なんてみんな一人じゃん。友達とか恋人とか繋がってるフリしてるだけじゃん。」みたいなことを言いがちな人間なのですが、よく考えれば、それもただ「自分は友達だと思ってるけど相手はそう思ってなかったらどうしよう…」という不安から来るものであって、まわりくどい保身のようなものなんだと思います。本当は、友達だと思っていたい人、たくさんいるもんなぁ。

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ブログの末尾に「一人の人間を愛するということは人類全体を愛するということだ」という言葉がありました。おそらくこれは、エーリッヒ・フロムが書いた『愛するということ』という本の中から引用した言葉だと思うのですが、以前、私がこの本を読んだときも、一番印象に残っていたフレーズでした。作中では「人類全体を愛せなければたった一人の人間さえ愛することができない」とまで言っていたような気がするのですが、(論理的に矛盾しているのはさておき)この人の考えてる「愛」ってめちゃめちゃハードル高いんだなぁ、と思ったのを覚えています。「愛されたい」と思うことはあっても、「愛したい」と思うことは、人間にとってそんなに自然なことではないのかもしれません。

こう見えて(どう見えてるか知らんけど)、私もけっこう「愛され待ち」をやってしまう方で、新しいコミュニティに入るときなんかは特に、誰かに積極的に声をかけてもらわないと上手くコミュニケーションが取れなかったりします。一対一で他人と会っているときや、こうしてブログで文章を書いているときなんかは、他人に対する警戒心を解いて自由に振る舞うことができる(ただ自分の世界に入ってるだけかもしれない)のですが、色んな人が集まっていたり、社交辞令での付き合いだったりすると、どこまで自己開示したらいいのかわからなくて、逆にコミュニケーションを完全にシャットアウトしてしまいます。「半分警戒しながら半分心を開く」みたいなことができなくて、「とりあえず明るく挨拶しておく」とか「当たり障りのない世間話をする」とか「全体に向けてふわっと話をする」とかが上手くできません。初対面の人に対しては友達のように馴れ馴れしく接するくせに、長く連絡を取っていない友人や一度知り合っただけであまりよく知らない人に対しては、初対面の人より、よそよそしくしてしまうこともあります。

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話は変わるんですが、私の解釈では「好き」と「恋する」と「愛する」はそれぞれ違うものということになっています。なんとなくそう思っているだけなんですが、その辺の私の感覚は他の人とどう違うんでしょうか。

私の中で、「好き」は「相手の中にある自分と同じ部分を肯定すること」、「恋する(憧れる)」は「相手の中にある自分と違う部分に惹かれること」、「愛する」は「相手の全てを受け入れようとすること」というイメージで頭の中に収まっています。私が誰かに声をかけるときは、最初、この人となら話が合うかもしれない、と思って話しかけます。感受性が近い人同士だと一緒にいて安心するし、相手を肯定することによって自分も肯定されるような気分になるからです。私の中ではその時の感情が「好き」です。逆に「嫌い」は「相手の中にある自分と同じ部分を否定すること」で、相手を否定することによって安心することができるし、自分が肯定された気分になります。「好き」も「嫌い」も相手そのものではなく相手に映る自分を見ているという点、自分を安心させるために相手を利用している点で同じです。(「好き」と「嫌い」の違いは、相手に映っている自分の姿を、自分で受け入れられているかどうかなのではないかと思います。私はすべての「嫌い」は「同族嫌悪」なのではないかと考えています。)

それに対して「恋する」は、安心とはほど遠い所にあります。個人的に「恋」(恋愛感情を伴わない場合は「憧れ」)は、目の前にその人がいない時ほどよく起きるものだと思うのですが、「想像上の相手を今の自分に欠けているもの全てを埋めてくれる存在として思い込むこと」なのではないかと考えています。もちろん想像でしかないのでいずれ「恋(憧れ)」は覚めますが、わかっていても自分でコントロールできるものではありません。

そして問題の「愛する」ですが、これは「目の前にいる相手そのものを見ようとすること」だと思います。「好き」も「嫌い」も「恋する」もある意味「相手の中の見たい部分だけを見ること」ですが、「愛する」は「自分の見たくない部分を含めてその人自身を受け入れること」ではないかと思います。もちろん人間である以上「自分」という枠から出られないので、相手そのものを見るのは原理的に不可能なんですが、相手の中の、自分では絶対にわからない側面にも想像力を働かすことが「愛」なのではないかと、今のところ、私は考えています。

この辺は混み入ったところで自分でも考えがまとまっておらず、さっきからの屁理屈こねまくってる感じが自分でもそろそろ嫌になってきたので、今日はもうやめときます。ていうか、書いてることとかほとんど他人の受け売り(ほとんど二村ヒトシ氏)なんですけど、その辺とか含めて本当になんかもうすいません。ダメだ。寝ます。おやすみなさい。

 

 

《つづく》