雑記

いい感じの日になったので、今日の日記は適当です。

ていうか最近、ブログを読んでくれている人が増えてきたんですが、どうしたんですか。やっぱりアレですか。「自分の人生を生きていないと他人の人生が気になってしまう」っていうアレですか。いやあ。どうもどうもこんばんは。フェイスブックから逃げて、ツイッターからも逃げて、インスタグラムなんてもう最初から怖くて近づけなくて、こうしてインターネットの少しだけ見えにくい場所で、いそいそと日々のつらみを吐き出しているおれです。いやあ。疲れてるときに、他人様が楽しそうにしているところなんて見たってどうしようもないですよね。ですよね? ですよね?! いやそうなんですよ〜。もうみんな疲れてるんですから、そんなもう、疲れるばっかりのことしてたってどうしようもないんですよ。

 

さて本題に入ります。もし、自分の話を好きなだけ聴いてくれる人がいたら、人って自殺なんかしないと思う。という話をどこかで聞いたことがあって、今でもなんとなく「あぁ、たぶんその通りだなぁ…」と思うことがあるのですが、これを読んでいるあなたはどう思いますか。その人は、自分がもうどんだけ長いこと話し続けていようが、イヤな顔一つせず、じーーと耳を傾けていてくれます。「本当にそうだね」とか「それはどうかな」とか、こちらが笑ったら笑い返してくれるとか、もしかしたら、そのくらいはしてくれるかもしれません。そうですね、してくれることにしましょう。それで、その人の顔や体型も自分の好みで決められることにします。自分が話すのに飽きたら、面白い話をしてくれます。一緒に生活して、料理や洗濯も、自分が「したい」と思わないとき以外はいつもしてくれます。夜は一緒に寝てくれるし、朝は明るく送り出してくれます。収入も入れてくれます。自分の「したい」と思う仕事だけしていれば、生活はその人のおかげでなんとかなります。「好き?」と尋ねれば「好き」と返してくれます。勇気が出ないときは励ましてくれるし、落ち込んだときは慰めてくれます。もしそういう人がいるとしたら、私は満たされるんでしょうか。どうなんでしょうか。

 

実は今日、知人と「婚活」について話をしていました。言うまでもなく私は「それってどうなん?」と思ってしまう方なんですが、なぜそう思うか言えば、今書いたようなことを考えてしまうからです。べつに出会い方はなんだっていいと思うんですが、「相手に求める条件を自分の好みで決めて選ぶ」というシステムには、どうしても歪なものを感じます。色々と引っかかる所はあるにせよ、今日考えてみたいのは、自分の好みってそんなに絶対的なものか、という点です。

恋愛に関しては、やたらと「ビビッと来た」だの「絶対にこの人じゃなきゃダメだと思った」だの、自分の気持ちを絶対的な基準にするような言説が、まことしやかに語られます。ですが、いつも私はこの手の話に違和感を感じてきました。そういうことがない、とまで言いたいわけじゃありません。私が違和感を感じるのは、その語り口の中に「そういうことが自分の身にも起きてほしい」という憧れのような想いが、まず、透けて見えてきてしまうからです。

たしかに私も、過去を振り返れば「運命的」としか思えないような出来事がなかったわけではありません。それは、良きにつけ悪しきにつけ「あの時の自分があって今の自分がある」「今まで起きてきたことはすべて必然だった」という感覚です。しかし。過去から未来へと視点を移すと、その感覚は一気に消え失せていきます。「これからどうしよう…」と考えることの中に、「運命」とか「必然」を匂わせる感覚は一切ありません。未来はいつも偶然に満ちていて、「膨大な選択肢の中から最適なものを一つ選び出す」というよりむしろ「自分に降りかかってくる偶然をどのように受け止めるか」ということしか、できないように思えます。

 

やばい…自分でもなに書いているかわかんなくなってきた… 

 

《つづく》書き途中