9月10日(土)

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私の好きだったバーミヤンのラーメンはバーミヤンラーメンという名前だったらしい。なんという安直さ。それに499円という破格の安さ。いいぞ、バーミヤン。しかも深夜2時まで開店しているそうだから、今日はもうずっとここにいるかもしれないな。と、そう思って追加でドリンクバーまでオーダーしてしまった。フロアの店員さんがどことなく二階堂ふみに似ている。

思い出のラーメンはたしかにうまかったけど、腹の中にまださっき食べた煎餅が残っていて、残念ながら気分が悪い。バーミヤンは悪くない。おれが悪い。おれがさっき薬局で買った煎餅を道端のベンチで一気に食べてしまったばっかりに。ていうかドリンクバー頼むんだったらさっき自販機でグリーンダカラ買うんじゃなかった。あー気分悪い。つらい。

店が混んできた。二階堂ふみ、がんばれ。フロアのスタッフは二人しかいないけれど、もう一方の人がなんとなく気の強そうな人で、たぶん、おれなら心が折れていたと思う。こんなに混むんだったら長居はできない。ラーメンの汁を飲み終える頃には店を出よう。でもここから隣接してるマックのWi-Fiが拾えて最高なんだよなぁ。

店員の忙しさが凄まじい。店の前に順番待ちの列もでき始めた。これは居づらい。気持ち悪くて汁なんか飲んでらんないんだから、おれはもうさっさと出よう。ドリンクバー頼んじゃったけど、でも、すごく忙しそうな店員を見ていたら辛くなってきた。接客ツラいよね。わかるよ。と、いうわけで今は近所の公園のベンチに座りながらブログを更新しています。でも蚊が...。もう9月だぞ蚊!

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街を歩いて、いつものようにベンチに腰掛けながら、ぼんやりと考え事をしていた。知らない内に何かを考えている自分。この先どうやって生きようかと悩み始めている自分。こうやって一人で考え事をしだすと大抵よくないことを考えてしまうものだけど、でも、そういう自分って一体なんなのだろうかということも、同時によく考える。

悩んでいることが、仕事だろうが、恋愛だろうが、人間関係だろうが、お金だろうが、自分自身だろうが、人生だろうが、悩んでいる時の自分が求めているものは、結局『安心したい』という気持ちを満たすための何か、その手段のバリエーションなのではないか、みたいなことをたまに考える。どうして私は安心してないんだろう。何が不安なんだろう。何かが欠けているから不安なのか。何かを手に入れれば不安じゃなくなるのか。「手に入れる」とは何か。「欠けている」とは何か。そういう言葉の一つ一つをじっくり考え直してみれば、何かを手に入れたつもりになることはできても、本当の意味で何かを「手に入れる」ということがどういうことなのか、それは具体的にどういう状態なのか、自分でもよくわからなくなってきたりする。

でも、例えば「これからは『所有』じゃなくて『シェア』の時代だ!」みたいなことが一部で言われることがあるように、この方向でどんどん考えを先に進めていくと、「足るを知れ」とか「資本主義は終わった」とか「愛が全てだ」とか、そういう、リベラルすぎて非現実的な感じのする議論に一足飛びに回収されてしまいかねないような気がして、どこからともなく湧いてくる「でもそんな歯切れよく全てのことを言い切れるハズないだろう…(だって今そうなっていないんだから…)」という気持ちが、そのバランスをいつも自分の中で考えさせることになる。

話が抽象的になってきたので、もう少し具体的になるように考え直そう。

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「所有」という概念について考えてみる。当然ながら「所有」がある種の行為を表すものなら、そこには「行為の主体」と「行為の対象」があるハズだ。まずはそこから考えてみる。

議論が煩雑になりそうなとき、この世の中に存在する全てのものを、まずはざっくり「人間」「モノ」「情報」の3つに分類して考えてみる、ということを、私はよくやる。ここでもそれを採用すると、「所有」という行為の主体たりうるのは「人間」であり、対象たりうるのは「モノ」である、と、ひとまず言うことができる。

哲学でよく議論になるテーマに『私は私の身体を所有しているか』という問題がある(と聞いたことがある)。私は別に哲学に詳しくないので、この問題が現時点でどのように決着が付いているかは知らないんだけど、ここで言われる『私』はいま定義する「人間」に、『私の身体』はいま定義する「モノ」に対応する。これらの分類は、一般的なイメージで捉えてもらっても支障はないのだが、一応、その定義を大雑把にまとめると以下のようになる。

「人間」:自由意思を持って、思考し、行動する存在。五感を通じて「モノ」を扱うことができ、精神作用によって「情報」を扱うことができる。《例》自分、他者

「モノ」:質量、形、色、匂いなど、物理的な性質を持つ存在。物体。《例》地球、扇風機、肉、プラスチック、たんぱく質、分子、原子…

「情報」:「人間」にとって意味を持つ記号。又はその集積。「モノ」に付与されることもある。《例》言葉、数、インターネット、高級黒毛和牛の高級感、バーミヤンラーメン、概念、文化... 

ざっくりまとめてみた。もちろん「自分」 という言葉ひとつ取っても、自由意思を持つ「人間」としての側面もあれば、身体を持つ「モノ」としての側面、今までの記憶の集積としての「情報」という側面もあり、これらを純粋に切り分けることはできない。あくまでも、世の中をざっくり演繹的に考えてみる、という無茶な議論を展開するための材料として準備した、便宜的な用語に過ぎないことを理解いただきたい。

さて、先に「所有」とは「人間」が「モノ」に対して行われる行為であると定義したが、「所有」を広い意味で捉えた場合、その対象となる範囲は「情報」に対しても及ぶことになる。ただし、ここで問題となるのは、何を以ってある対象を「所有された」と判断するかだ。

「所有」という行為は「他者」からそのことを承認されることによって完結する。少なくとも、社会的行為としての「所有」は法律によって定義され、最終的には国家権力という暴力装置によって担保される。

…ぬわ!なんか急に考えるのダルくなってきた!どうでもいい!ていうかどうせ「なんか…これからおれどうしよっかな…」みたいな動機で書き始めた文章だったから、別に「所有」の概念が分かろうが分かるまいがどうでもいい!寝よう!

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とりあえず、文章にするのはまた後にして、思い付いたことを適当に箇条書きで書いていきます。

  • 純粋な意味での「モノ」それ自体は「人間」が認識できる範囲を超えており、事実上存在しえない。
  • 「モノ」は「人間」にとってどのような意味を持つかという観点から「名前=情報」を付与されて初めて「人間」が認識できる存在になる。
  • 「人間」は「モノ」それ自体を所有することはできない。「情報」を付与された「モノ」に関しては「所有したつもり」になることができる。
  • 「モノ」を「所有したつもり」になっている「人間」は、ある種の「情報」が意味を持つような固定的な世界観を生きているので、自由意思を持ちえない。よって純粋には「人間」の定義から外れる。
  • 純粋な意味での「人間」は何物も所有しない。しかし逆説的だが、通常そんな「人間」は存在しないので、何らかの「モノ」(自分の身体など)を「所有したつもり」になっている。
  • すなわち「所有したつもり」になることと「所有」はほぼイコールである。
  • 「人間」は何らかの固定的な「情報」空間(主観的に意味付けされた世界観)を生きている。その意味で「人間」は「情報」を所有している。

《つづく》更新中