9月16日(金)

いつものようにインターネットを眺めていたら「プロブロガーを目指して大学を辞めました」という青年に言及している熟練ブロガーの記事を見つけた。書いてある内容はもっともで、文句一つ付けようもないほど筋が通っている。鼻に付く理由も分かるし、何のビジネススキルも持っていない私でも、その人が胡散臭い商売に手を染めつつあるのはさすがに明らかだと思った。でも、胸に残るこの釈然としない気持ちはなんなのだろう。状況的には明らかに「プロブロガーを目指す」彼のほうに非があるのは間違いないし、私も彼の考えにまったく同意しようとは思わない。でも、私が引っかかるのは、構図としては「すでに力を得た側にいる者が力を持たない側にいる者を叩いていること」に変わりないということだ。もしここで、私がその熟練ブロガーと一緒になって「プロブロガーを目指す」彼を嗤ってしまったら、それは今の私が一番してはいけないことなのではないかと、そう思えてならない。それは、私も彼と同様にブログを書いているからとかではなく、私も彼と同様に何も持っていない側の人間だからだ。彼の中にある幼稚なまでの「何者かになりたい」という気持ちは痛いほどよくわかる。「何者でもない」という不安から現実を歪めて見てしまう気持ちもよくわかる。すでに実力を認められ、心の平穏を手に入れた側からしたら、ものすごく滑稽なことをしているのかもしれない。いや、私の目からしても「そんなことしなければいいのに」と思うようなことを彼はしている。でも、私に彼を嗤えるだろうか。それもすでに力を持っている側の主張に負ぶさるような形で、何の関わりもない誰かのことをとやかく批判できるだろうか。そうではないと思う。彼に非があると感じるなら尚更、それをそのまま口に出すのは野暮なことなのではないかと思う。

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ツイッターフェイスブックにはプロフィール欄という項目があって、そこに書かれている内容を見れば、その人が「どのような人として見られたいと思っているか」がだいたい透けて見えてくる。今まで通ってきた学校名を書く人、好きな歌手・音楽グループの名前を書く人、国籍を書く人、病歴を書く人、セクシュアリティを書く人、有名人に返信された回数を書く人、ぱらぱらと眺めているだけで本当にいろんな人が生きているんだなぁ…と思わせてくれる。もちろん上っ面でそう思っているだけなんだけど。

そういうことを思うにつけ、最近よく聞かれるようになった「多様性」という言葉について、自分なりによく考えることがある。「多様性」とはなんだろうか。それは誰から誰に向かって使われる言葉なんだろうか、と。流行りの言葉にはいつもどこかしらの脇の甘さがあるように思うけれど、この言葉にもそれを感じずにはいられない。私が思うのは、この言葉は、社会や集団を設計する側が使うものであって、それを構成する一人一人の側が使うものではない、ということだ。私には「多様性」という言葉を好んで使う人たち自身が、どうしてもみな画一的に見えてしまう。

「類は友を呼ぶ」なんて諺をわざわざ引用するまでもなく、そもそも人は自分と同質の集団の中にいたがるものだ。社会の多様性を実質的に押し広げていく個人個人は、自分と感性の合う(側から見たら)画一的な狭い集団の中にいて、すでに社会という視点を捨ててしまっている。第一「いろいろな人がいるべきだ」と主張する人たちでさえ「いろいろな人がいるべきだ」という同様の価値観を持つ画一的な集団の中にいるのだ。結局、人は自分の価値観から自由でいるとはできない。多様性とはなんだろう。社会とはなんだろう。大袈裟すぎて、誰の口から飛び出しても仰々しくなってしまうこの言葉を、まずは一旦疑うところから考えていきたいと思う。

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SNSのアカウントに書かれたプロフィールは「その人がどのような人間であるか」を表しているのではない。写真・学歴・勤め先・性別・年齢などを通して「その人がどのような人間として見られたいと思っているか」を表しているにすぎない、と私は思う。年齢や性別など、一見客観的だと思えるような情報でさえそうだ。それを明らかにするかどうかがその人自身の選択に委ねられている以上、本人が「自分がどのような人間であるか」ということに関係がないと判断すれば、あえて言わないという選択肢だってある。つまり、私が言いたいのは「自分が何者であるか」は自分で決められるんじゃないか、ということだ。誰かに認められたからとかではなく、客やファンがたくさんいるからとかじゃなく、最終的に「自分が何者である」を決めるのは、自分しかいないんじゃないか。そういうことを思ったのだった。

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《つづく》更新中