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雑記

日記とかではなく、ただ頭の中に浮かんだことをそのまま書こうと思って、新しく文章を仕切り直してみることにする。日々生きていれば必ず何かを思うものだし、スマホを開けば大量の情報が押し寄せてくるこのご時世ですから、思ったことはどんどん吐き出さないとみるみるうちに溜まっていきます。吐き出していくだけなので、読み返したときにたぶんまた死にたくなるんだろうな。

楽しそうにしている誰かのことを素直に「楽しそうでよかったね」と思えないような今みたいなときは、本来ならきっと文章なんて書くべきじゃないんだろう。今朝目が覚めたときに、さっきまで女の人に膝枕してもらっていたと思ったんだけどあれは夢だったんだ、と気付いて急激に生きていく気力を失っていったんだけど、膝枕のされたさは、残念ながら、今、ものすごくある。あー…なんか、なんかもう。なんかもう、あーあ。あーあーあ。

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アルコール依存症の患者が回復するには「底つき体験」と呼ばれる段階を経ることがとても重要だ、という話を聞いたことがあります。あ、話を変えます。「底つき体験」っていうのは要するに、いろいろ失敗した後でようやく「自分はもう本当に変わらないとダメなんだな」と腹の底から確信するようになる体験、みたいなことだとざっくり理解しているのですが、あんまりよくわかってません。よくわからないのであとで自分で調べて下さい。ていうかこんなブログに書いてあることなんて信用しないで下さい。

で、別に自分はアルコール依存症ではないのですが、この「底つき体験」っていう概念には初めて聞いた時からなんとなくしっくりくるところがあって、その辺りのことについて一人でよく考えることがありました。たとえば「同期が自殺したのをキッカケに一念発起して脱サラした」とか「事故や病気をキッカケにやりたくないことをして生きるのがバカバカしくなった」とか、そういう話ってすごくよく聞くじゃないですか。これはたぶん厳密には違うと思うんだけど、でもなんか、誰でもこういう「あ、底ついたわ今」みたいな、いわゆる「人生の転機」みたいな瞬間って、どこかにあるような気がするんですね。で、そもそも、そういう話って物語としてすごく収まりが良いし、本人もなんかすごく吹っ切れたところがあったりして、素敵な雰囲気を漂わせていることが多かったりするじゃないですか。『プロフェッショナル』なんかも必ず挫折した過去のエピソードを挟んでくるけど、起承転結における「転」がしっかり効いている物語を聞かされると、「なんかいいなぁ、小説みたいな人生で」「たしかにキラキラ生きている風で、たしかにキラキラしているなぁ」みたいなことを思うわけです。

なんですけど。なんかもう、ね。なんかもうそういうインタビューやら自伝やらウィキペディアの経歴やら読むたびに、なんかもう、なんか、なんかもう!みたいな気持ちになるわけですよ!子供のころから「将来の夢」とか「どんな仕事に就きたいか」とかがまったく分からなくて、いよいよ進路を決めるっていう高校の終わりごろになっても本当に分からなかった私は、腐り切った眼でウィキペディアを調べながら「小田和正さんって若いころ歌手になるか建築家になるかで死ぬほど悩んだんだな」とか「でんじろう先生って意外に浪人期間長かったんだな」とか「大泉洋さんも大学入った直後はウツっぽくなってたんだな」とかそういうデータばっかり死ぬほど頭に詰め込んでいました。で、結局、今もよく分かってないんですが。でも「あ!自分は昔から○○な人間だったから、きっと○○な仕事がいいだろう」とか「あ!そういえば子供のころから○○になりたいと思ってたんだ!」とか、なんかそういう「気付き」ってこれからもきっと起きないような気がするんだよなぁ。そういうもんじゃない気がするんだよなぁ。

だから、さっき書いた「底つき体験」もそうだけど、自分に引きつけて考えると、「自分の人生をまるっと説明できてしまえるような(一つの大きな)物語」なんて、たぶんどこにもないんじゃないか、と、実は思っています。そういうのに憧れるし、そういうことを語っている人を羨ましく思う気持ちはあるけれど。でもなんか、話がこんがらがってきたので、ここら辺のことはまた今度にしよう。

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人ってしんどいときほど他人のことが気になるもんだと思うんですね。でも、自分の人生のことを語っている人って、たいてい何かの分野で活躍している人だったり、それに準ずる地位を確立している人だったりするわけで、いや、それはそれでいいし、実際、読んだそのときは救われた気になるんだけど、でも、目を逸らしているしんどい現実はなにも変わらずそこにあるから、結局そこから先は自分で考えてやっていかなくちゃいけない。例えば「ああ、中島らもさんって灘高から落ちこぼれたんだなぁ…(おれと同じだなぁ…)」とか「ああ、家入一真さんって十代の頃は引きこもりだったんだなぁ…(おれと同じだなぁ…)」とか、過去を乗り越えて活躍するその人の姿を見て勝手に勇気づけられることはあっても、何もしていない自分が彼らのようになれるかと言えば、ぜんぜんそうではない。むしろ彼らはそれぞれの分野で十分に認められていて、認められているからこそ過去を語れるだけなのかもしれない。

これに限らず、元引きこもりだったとか、元ニートだったとか、元うつ病だったとか、私自身そういう人たちが書いた文章に何度も救われてきたし、別にそのこと自体の価値はなにも疑わないんだけど、でも、だからって急激に自分の身に変化が起きるかといえば、そうではない。結局は動かしがたい現実が目の前にあって、それを変えるには一歩ずつ、私の場合は、それこそ一人で若者サポートステーションに行ってみるとか、一人でハローワークに行ってみるとか、一人で証明写真を撮りにいくとか、そういう具体的な行動を一つ一つ積み重ねていかないといけない。べつに、それだけが道ではないと思う。いろいろな生き方があるのを知って、実際にそういう人たちにたくさん会って、これでもずいぶん生きやすくなった。でも、自分の目の前にどれほど道があるんだろうかと考えてみれば、きっとそれほど道は多くはないんだろう。いろいろな生き方をしている人がいるっていうのは、なにも一人の人間の中にたくさんの可能性があるってことじゃなくて、それぞれの人間にはどうしようもなく変えがたい部分があるというだけのことなんだと、近頃そういうことをよく思う。

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「自分らしく生きる」とか「やりたいことをやる」とかこの手の類のメッセージはなんだかとても良いことのようにして語られることが多いけど、自分らしく生きた結果、不幸になることもあるだろうし、やりたいことをやった挙句、誰かを深く傷付けたり、周囲の無理解に苦しんだりすることもあるかもしれない。そもそもなにが「自分らしい」のか、なにが「やりたいこと」なのかなんて、そんなこと本当にわかるんだろうか。少なくともおれにはわからない。きっと一生わからないし、たぶんそれでもいいんだと思う。

《つづく》