10月12日(水)

父親が読んでいるとなると、書く内容もおのずと変わっていかざるをえない。本当なら今まで書いてきた記事を一旦すべて非公開にし、最初の投稿からすべて読み直して、不十分な点を補い、読みにくい箇所は修正し、不適切な表現は適切に変えていきたいところなのだが、気が付けば60日分も投稿してきてしまったので、とてもじゃないけれど気が進まない。でも、たとえ今になって書き直したとしても、書き直す前の文章を読んだ人が、書き直した後にまた同じ文章を読んでくれるという保証はない。人生はやり直しが効かない。前の文章を書き直す時間があるなら、また新しい文章を書く方が早い。そのときそのときにしか書けないことがある。

さて。ご覧の通り、私は毎日とてものんびりとした生活を送っているのだが、そんな私でも、ありがたいことにいつも良くしてくれる方々からときどきお誘いを受けることがある。私も彼らに会いたいので、それらの誘いはほとんど疑う余地なく確実に受けることになるのだが、それ以外では自分からなにかをやろうと思うことがほとんどなくて、近所を散歩したり、ホットケーキを作ったり、日記を書いたり、音楽を聞いたり、昼寝したり、お菓子を食べるなどして、結果的にいつも家にいることが多くなる。しかし、頭の片隅には「ハローワーク行かないとなぁ」「バイト探してみるしかないかなぁ」という社会的義務感の残骸のような思いがこびりついているため、それらを完全に心から楽しめるわけでもなく、そんな日々が長く続いてくると、しまいにはどんどん気分も塞いできてしまう。そうして、食費や交通費などで消えていく口座の残高とともに精神力もみるみるうちに目減りしていくのだが、いよいよ「なんかもう生きていくのヤだな」と思った頃になると不思議なことに口座に数万円のベーシックインカムが振り込まれていて「はーとりあえず今月はまだ生きていける」となるような、そんな何年間かを過ごしてきた。

さて、誰かに誘われているときは良い。川崎で働かせてもらったバイト先はまさに誘われたからこそ行けたのだが、八王子でご厄介になったシェアハウスも、もともとお世話になったことのある人だったのが大きかった。私は自分が今のような状態になっていることを見知らぬ人に上手く説明できないので、自分がだいたいどんな人間なのかをすでに知ってくれていそうな人とだけなるべく関わりたいと思い、誘いがくれば飛びついていき、かつ充実した時間を過ごして家に帰ってくる。しかし問題は家に帰ってきてからだ。

私は、一人になるのが嫌いなわけではない。むしろ好きだ。しかしさすがにそれにも限界があり、一人でいすぎたために無駄な思考を働かせて頭が暴発したり、肉体が衰弱する代わりに精神が過剰に働いて勝手に不安になって落ち込んだりすることがしばしばある。そうならないためにはどうすればいいか。一人でいるからダメなのであれば、誰かに会いに行けばいい。しかし、もちろん誰でもいいわけではない。

たとえば、社会的に言えば「ニート」である今の私を「ニート」であるからという理由で差別する人とはなるべく関わりたくない。そして自分自身の中にそのことに対する負い目がないわけではないので、それによって余計に人と関わりたいという気持ちが削がれてしまうというのはあるかもしれない。というより、今の私にはそれがすべてだ。何も悪いことをしてないはずなのに、何か悪いことをしているような気がしてしまうという私の認識が、私から人を遠ざけている。

何年引きこもっていようが、何十年引きこもっていようが良いではないか。 私は、私たちは、なぜそう思えないのだろう。引きこもりだからダメだ。無職だから自分には価値がない。そう思うことによってむしろ、今のままの状態に自分を縛り付けていることになぜ気付けないのだろう。引きこもりの自分がダメだと思うから部屋から一歩出てみよう、無職の自分がダメだと思うから仕事探しを始めてみよう、そう思うのでは、問題は何も解決しない。他人からどう思われたっていい。そんな、子供の頃にはきっと当たり前のように思っていたはずの認識を少しずつ回復していくことでしか、きっと問題は解決されないのだと思う。振り返れば、私がここ数年の間に経験したさまざまな出来事は、まさにその道筋の上に起きていたことだった。

そもそも、私が問題だと思うものは何も問題ではないはずなのだ。ただ生きている。それの何が悪いのか。親からの仕送りで買い物をしようが、働きもせず昼夜逆転した生活を送ろうが、私がそれを望んだのなら、その日々は私にとって限りなく尊い。それに比べたら、他の人がどう私をどう思うのかなんて小さすぎて話にならない。

私はきっと近所のスーパーでかつての同級生らしき人物を見つけても180度ターンして引き返す必要なんてどこにもないし、父親から私が社会的に見てどんなに間違っているかをまるで犯人を問い詰めるかのような激しい口調で滔々と説教されても、今のようにただなるべく笑顔でなるべく論理的に受け答えするように心掛けてればいいのだ。罪悪感に耐えられないから仕事を探す、というのでは、私の身体はちっとも動いてはくれない。

さっきから勇ましく書きすぎているようにも思えなくないが、なにもこれが今友人たちとともに和やかに夕飯をいただきながら日記を更新しているから、というわけではないことを祈りたい。明日は彼らと佐渡へ向かう。

《つづく》