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11月7日(月)

K氏の友人宅に滞在するK氏から連絡が入り、H氏とともにまたしても神奈川県の藤沢市にやって来ているおれです。こんばんは。4日(金)高速バスのチケットを取り、5日(土)夕方新潟駅前を出発。その夜、渋谷駅に到着し、午後11時過ぎごろ、すぐ前に「突然お世話になりました」と後にしたはずのお住まいに、またも突然泊めさせていただくことになりました。それから昨日6日(日)朝、藤沢を出発。横浜まで移動し、K氏、H氏の知人と会食します。その後、江ノ島の知人のお宅にお邪魔し、そこでもまた突然一泊させていただいて、今、朝を迎えました。これから、昨日会食した知人のお宅に向かい、K氏とともに庭の手入れを行います。怒涛のスケジュールです。

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庭の手入れを終え、昼食をいただき、1時間ほどさまざまなお話をした後、江ノ島のお宅に戻ってきました。要点だけ書くとあっさりしてますが、これだけ動いていると、さすがにあれこれ考えることがあります。以下に、最近どぎまぎしたことを思いつくだけ挙げてみたいと思います。

1.おれは食事のマナーがなってないらしい

そんな私をK氏はなんとも思っていない(もっと言えば別に良いどころか、逆にその方が良い場合すらある(理由は後述))とのことですが、自分自身のことながらあまりにも無自覚だったために、衝撃を受けました。そう言えば昔から、他人の家で食事をいただくときに味噌汁をこぼしてもなんとも思わなかったり、レストランに入っても全員分の水を用意せずに自分の分だけコップに入れて席に着いたり、お茶菓子を食べ過ぎて訪問先の人に笑いながら補充されたりしていましたが、思えばそれとかも全部ダメだったんだろうなぁ。今のところK氏からは「左手を床につきながら食事をすること」「器を持たずに料理をよそうこと」の二点を指摘してもらいましたが、そんなこと言ったらきっと他にも死ぬほどあるだろうから、怖いもの見たさでもっと教えてほしいと思わずにはいられません。

2.食事のマナーが悪くても別にいいらしい

K氏と行動を共にする中、主にコミュニケーションに関することでさまざまな議論を交わしました。前述のとおり、客観的に見て食事のマナーがなってないらしい私ですが、それをK氏は肯定的に評価しました。K氏が言うには「もちろん、マナーが良いに越したことはない。でも、一般的に『きちんとした大人』と認められるような作法ができるからといって、自分の本心を相手に伝えられなければ、コミュニケーションが成立しているとは言えない。私(稲村)の場合は、マナーはなっていないけれど『マナーを守れない人間である』ということは相手にしっかり伝わっている。最初からそういうヤツだと思われれば、その人との関係性において、『きちんとした大人』であると認められるがゆえに引き受けなければならない、分不相応な期待を背負い込まずに済む。だから良い」と、いうようなことでした。もちろん彼はあえてこう言っているのでしょうし、私がそれに甘んじて「そっか!マナーなんて要らないんだ!」となるのはお門違いだと思いますが、妙に説得力があり、興味深い議論でした。

3.意外とこの日記を読んでいる人がいるらしい

「他人に読ませるために書いていない」みたいなことを何度も書いていますが、それでも公開しているのだからやはりこのブログを読んでくれている人はいて、当然ですが、その人の中では一つ私の書いた文章を読むたびにそれに対する何らかの評価・感想・判断が日々下されていくことになります。そんな現実に発狂しそうになりつつも、誰でも読めるように公開しておきながらSNS全盛の時代にあえてツイッターフェイスブックにはシェアしない私の意図を汲んでいただけると理解がしやすいかもしれませんが、私は表現という行為を排泄と同じくらいにしか思っておらず、基本的には醜いもので、美しく見えるとしても美しく見せようとする心が醜く、かつ(ここが重要なのですが)その醜さの中にこそ本当の美しさがあるのではないか、みたいな、そんな感じの感覚を持っています。

ゆらゆら帝国の『美しい』という曲の中に、

上品なクソがいい 素敵なクソがなおいい

出てこい出てこない 

だけど それはクソだ 同じさ みんな同じさ

という歌詞があります。このブログに関しては、今になってはもう取り返しがつかないほど書いてきてしまっているのである意味諦めがついていますが、最初に書きはじめたころの「とにかく吐き出したい(かつ褒められたい)」という衝動はどう考えても醜く、醜いからこそ、自分にとってだけは間違いなく意味があると言えるものでした。誰かに読まれていると思うとどうしても自分をよく見せようとして手元が鈍ってしまいますが、あらゆる表現物はそもそもクソみたいなものなので、クソを加工してキレイに見せようとするのでなく「排泄する」ときのスッキリ感、「排泄物」から垣間見える自分の(精神的な)健康状態こそ表現の醍醐味だと思って、今後ともコソコソ書き進めていきたいと思います。

4.

〈更新中〉