読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

12月3日(土)

今日、昨日、一昨日とまったく同じ一日を過ごしていたような気がする。唯一違うのは、今こうして近所のうおべいで寿司を食べていることだ。玄関を出る前に「そういえば5日くらい前に寿司を食べたいと思ったことがあったな」ということを思い出して、シャワーを浴びて、服を着替えて、上着を羽織って自転車に乗った。午後5時ごろだった。空はもう真っ暗だけど、近所の保育園の窓にはまだ働いている人たちの影が見えた。他人の気配がする時間帯に外に出たのは久しぶりだった。おそらく家に居れば今日も自動的に夕飯が食卓に並んでいたのだろうけど、もう3日も繰り返してしまったこんな生活に自分なりに少し抵抗したくなって、ひとまず回転寿司を食べに来たのだった。とくに腹が空いているわけでも、どうしても寿司が食いたかったわけでもない。このままだとまた明日もダメにしてしまいそうな気がしたから、こうして寿司屋に来てブログを書いている。

この3日間、私はほとんどの時間を寝て過ごした。4日間だったかもしれない。何日か前に知り合いのお店で久しぶりに会う人たちと顔を合わせたのを最後に、実家に帰ってそのまま延々と眠り続けていた。これは言い訳だけど、私の部屋は、中に入るとどうしても布団の上に寝転がるしか構造的にできないようになっている。面積が狭いため、布団を畳んでおくスペースがない。それからストーブの効き目が弱いため、室内が慢性的に寒い。そして床は板張りのため座り心地が非常に悪く、腰かけるにしても部屋には姉が小学生の頃に使っていた学習机とそれに付いていたパイプ椅子しかない。当然、座り心地はよくない。そうすれば布団の上に寝転がるしかない。そして寝転がれば自然に寝てしまうのが人間というものだ。ちなみにこの学習机は部屋のスペースをかなり圧迫しているためいい加減捨ててしまいたいと思っているのだが、しかし部屋には他にも捨てるべきモノがたくさんある。数年前に買い込んだけど結局ほとんど読まなかった膨大な古本、参考書、学生時代に使っていた教科書、ノート、証明書、日記…

実はこの数日間、私は長い眠りの合間合間に、少しずつこれらの本や書類を片付けていた。実家に帰るたびに片付けようと思うのだが、どうしても気が進まない。これでもかなり減ったほうだ。私の部屋の中には「いつか読むかもしれない」と思って取っておいた教科書やノートが小学生の頃からのものを含めて大量にあり、今はようやくあと一山か二山という具合に減ってきたのだ。しかしその一山が3日かけてもなかなか減らない。「いつか読むかもしれない」と過去の自分が思った理由がとてもよくわかってしまうほど、捨てるに捨てられない書類が凝縮されている。

これは言い訳だけど、物理的に捨てるというだけならある意味簡単なのだ。しかしどういうわけか、これらの書類を前にすると「きちんと自分なりに噛み締めてから捨てたい」という気持ちになってしまうため、なかなか捨てることができない。中身に目を通さなければたしかにすぐ捨てられるかもしれない。でもそれでは自分でも何を捨てたかわからないではないか。自分でも何かわからないものを捨てたというなら、それは本当に何かを「捨てた」と言えるのか。私はただ紙や本を束ねてヒモで縛りたいわけじゃない。それらに書かれている内容ごとヒモで縛って捨ててしまいたいのだ。だから読まなければならない。読んで噛み締めなければならない。

そういう発想になるから私は余計な体力を消耗する。そしてその挙句、疲れて眠ってしまうのだ。布団の上に散らばった書類を避けるように身体を丸めて「今日も一歩も外に出なかったなあ」という罪悪感を胸のどこかに感じながら眠りにつく。そんな数日間だった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

店内が騒がしくなってきた。後ろを振り返ると入り口に行列ができている。会計を済ませようと、座席に備え付けられたタブレットをタップすると、若い女性の店員さんがやってきて「お店のシステムが変わりまして、こちらをタップしていただいて直接レジに伝票をお持ちになって下さい」と言われた。皿はもう数えないのか。回転寿司チェーンはどこも驚くべきスピードで技術革新している。これでは近い将来ほとんど人の手は要らなくなってしまうだろう。今だって店員さんは、ほとんどシステムの補助をするために働いているようなものだ。すれ違った若い女性の店員同士が「前髪切ったでしょー!」と笑いながら声をかけ合っている。人間らしくていいと思う。たとえそれが愛想笑いだったとしても。

店の入り口にはぞろぞろと人が並んでいる。家族連れが多い。彼らも自動的に運ばれてくる寿司を食べに来ているのだ。そういえば大学に通っていた頃、他人の視線が恐ろしかった私も、回転寿司屋にだけは入ることができた。無機質な空間にやたら音量の大きいBGMが無意味に流れている。手元までは自動的に運ばれてくる寿司を最後は手動で口に運ぶ。私はお茶をすすりながら自分の座席でひたすらスマホをいじっていた。ファミリー席に座っている大学生のグループとは目を合わせないようにして、同じカウンター席に座っている一人ぼっちの高齢者を勝手に自分の味方につけていた。今、そのときの気持ちを思い出す。なんの文化もない、なんの豊かさもない。そういえば父の退職祝いも祖母と父と私と3人で回転寿司で済ませたものだ。私はこの空間の隅から隅まで軽薄だとしか言えないような雰囲気が、なんとなく現代を象徴している気がして嫌いだった。そして不思議と居心地がよかった。

〈更新中〉