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12月11日(日)

自分が始めたいと思ったわけでもないのに、人生は勝手に始まってしまっている。「これからどうやって生きていこう」とか「自分は何者なんだろう」みたいなことを考えるときはいつも、すでに始まっているこの人生というものに対して一歩引いた場所からものを考えようとしてしまっているけれど、でも、本当はどこにもそんな場所なんてないのだ。私は人生から逃れられない。どんなに考えを巡らせていても、身体はいつも人生の内側にいて、それを外側から加工したり設計したり修正したりすることはできない。私は勝手に始まってしまったこの人生に否が応でも参加しなければならない。いや、そう思うよりも前に参加させられてしまっている。

部屋の中にいても文字を打つ指が震えてしまうくらい空気が冷たくなってきた。布団から出られないでいるうちに、時計は夕方の6時を回った。ここ最近は、日頃お世話になっている方と数日前にファミレスで会食したこと以外は、わざわざ日記に書くまでもないほど自堕落な生活を送ってしまった。後から振り返って自分で自分に失望するくらい時間を台無しにすると、さすがにブログを書く気も失せてしまう。

1時間ほど前、そんなダラダラとした生活に変化を起こそうと、後先考えず唐突に数年使っていたツイッターのアカウントを消した。思い付いたときは「本当にこんなことをして大丈夫なのだろうか」と思ったけれど、いざ消すときは呆気なかった。今はまだあまり実感が湧かないけれど、やはり後から不便さを感じるのだろうか。まだわからない。

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3年ほど前に初めて登録してから、私はヒマさえあればスマホツイッターをながめるようになっていた。移動中の電車の中や寝る前の布団の中はもちろんのこと、当時からヒマの多い毎日を過ごしていた私は、一日のあらゆる時間帯にツイッターを開いていた。私にとってネットと言えばほとんどツイッターのことを意味する。そのくらい入れ込んでいた。世の中の動きも主にツイッターを通して知った気になった。著名人をフォローして彼らのシェアするニュースの記事を読んだり、実際に面識のある人をフォローしてその人の近況を知ったり、アートやイラストの作品を紹介するアカウントをフォローしてその画像を眺めてみたり、とにかくさまざまな情報を雑多に掻き集めていた。

ツイッターの使い方には個性が出る。私は誰かを「おもしろい」と思う手前の「おもしろいと後で思うかもしれない」と思った段階で気安くフォローしていたため、先月まで私のフォロー数は2000を越えていた。タイムラインには毎秒ごとに新しい投稿が流れる。私は共感したものや「おもしろい」と思ったものを次々とお気に入りにした。ツイッターを使い始めた当初は、自分の発言も似たような感覚で好き勝手に投稿していた。どのように見られているかなんて考えなかった。いま考えると鳥肌が立つけれど、当時は人生に対する不安や迷いが今よりもっと切実で、画面越しの誰かに対してまで気を払う余裕がなかったのだ。笑えないほど暗い投稿を繰り返し、おそらくかなり近寄りがたい雰囲気を漂わせていただろう。2年ほど前にそうした自分の姿のあまりの痛々しさに耐え切れなくなって、一度過去のつぶやきを全て削除した。

それ以降、自分ではあまりつぶやかなくなった。たまに声をかけられたとき以外は、誰かと交流するわけでもない。最近は自分でも何をつぶやいたらいいのか本当にわからなくなっていたのだけど、それは、前よりも少しはマシなくらいには自然と他人の視線を気にできるようになってきたからだろう。しかしそれと同時に、おそらく自分と他人ではツイッターの使い方が大きく違うのではないかという想いがごまかせないほど強くなってきた。私の関心があることや私が考えているようなことは、知り合い同士で楽しく何気ないやり取りを交わしている他人様のタイムラインにはきっとそぐわないに違いない。それにフォローしてくれている人にもいろんなタイプの人がいる。自分の思っていることをそのまま表現しながら全ての人に当たり障りないような形に、しかも140字以内にまとめあげるなんて芸当は、私にはできなかった。なにより直接話したことのある人に、直接話すことができない場所で嫌われたくなかった。いろいろな人がいろいろなことを言う場所で、それでも静かに堂々と振る舞うことが自分にはできなかった。

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そのような理由で、このままツイッターをダラダラと使い続けるのはどうなんだろう、と長いこと思っていたのだった。私のように対外的な他人との関わり方の固まっていない人間が何の後ろ盾もなくそのまま世の中(=ツイッター)に打って出るのは、心理的にかなり厳しい。情報収集しづらくなるのは不便だけど、しかしそれもはたして本当に有意義な行いだったのかはわからない。とりあえず今は日記をほそぼそと書き続けながら、引き続き自分と世の中との接点を模索していきたいと思う。

ツイッターのアカウントを消すときに一番恐ろしかったのは、たとえネット上の仮初めの繋がりであっても親交のあった人たちから受けたフォローを失ってしまうことだった。思えばツイッターを始めたのは、3年ほど前のこじらせ方がピークに達していた大学生の頃だ。私がツイッターを利用していた時期は、現実にもネットにも心を通わす相手が一人もいなかった状態から、少しずつ自分を奮い立たせて他人の前に立っていった、その時期に重なる。まともな状態でなかった私は「フォローしてくれているということはたぶん自分を嫌ってはいないはずだ…!」なんていちいち考えながら恐る恐る生きていたものだが、おかげさまで今はもうそんなことを考える必要はなくなった。と、たぶん思う。またどうでもいい長文を書いてしまった。ドシッとしていればいいのだ。目が疲れたから今日はもうこの辺で終わろう。