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12月12日(月)

最近、もう何年も前に作られた中学生の頃の同級生たちのLINEグループに久しぶりの連絡があって、都合が付けば正月休みに再会しようか、などという話が巻き起こっている。私は大学を中退したけれど、彼らは大学を卒業しただろう。私は働いていないけれど、彼らは仕事に就いているだろう。私は恋人がいないけれど、彼らには恋人がいるかもしれない。私は親から仕送りをもらっているけれど、彼らは自分で金を稼いで経済的に自立しているだろう。ありのままの自分を肯定したい、なんてクサいことを言っても始まらない。私と彼らが顔を合わせれば、そこにはきっと微妙な空気の摩擦のようなものが起こり、お互いにとってあまり良い時間にはならないだろう。私は彼らと連絡を取ることができない。彼らの前で平然と「いやあ、いろいろあったから今は何もしていないんだよね」などと笑って答えられる自信なんて、今の私にはない。

私は今のような状態になっても、金銭的にそれほど不自由なく生活することができているという点で恵まれている。それは実家(=父)が健在で、私が生活するだけの経済力なら担保できるからだ。確認したことはないけれど、おそらくそうだろう。父がどう思っているのかは知らないけれど、彼はなんだかんだ言っても私に毎月生活費を振り込んでくれ、私もなんだかんだ言ってもそれを当てにして生活してしまっている。今までもそうだったが、このような構造があるおかげで、私は本来なら引き受けざるを得ないであろう現実社会との関わりやそれに伴う痛みから逃れることができている。変わりたいと思いながら、変われない。

働きに出ない理由なんて挙げようと思えばいくらでも挙げることができる。でも、本当のことを言えば自分でもよくわからない。なんでもそうだけど、自分で思い付くことなんてのは所詮、要するに変われない自分を認めてほしいというような欲望の派生でしかなくて、本当の意味で自分をまるっきり変えてしまうような決定的な現実は自分で自分に突きつけることができないものなのだ。私は自分が本当に変わりたいのかどうかわからない。問題を問題だと思っているうちは問題を解決できないという、そういう身も蓋もない話なのかもしれない。結果は自分で思い知るしかない。

シャワーを浴びて、髪を乾かす。今日一日だけでも気分よく過ごすということを目標にしたらどうなるだろう、と、シャンプーを泡立てながら考えていた。さきほど昼食を食べながら読んだ本の中に「人は一人では変わることができない。でも誰かに寄り添われながら、互いに互いを変え合うことならできる」というような言葉があった。私は幸運にも男女問わず素敵な雰囲気を醸し出している人たちと多く出会えたことによって、一人でいるときにでも「もしあの人だったらどう振る舞うだろうか」などと考えて真似をしてみることがあった。そうでなくても、後から気が付いたら、彼らが私に話した言葉をあたかも自分が考えた言葉のように誰かに話していたこともあった。私は彼らと同じようにはなれないけれど、自分の無意識のどこかに、彼らがどんな場面でどんな振る舞いをしていたかという記憶が蓄積しているのだと思うと、自分が前よりも少しだけ頼もしく感じられるような気がした。

自分が本当に思っていることなら、きっとそれを信じて誰かに投げかけてもかまわないのだろう。私がそれを本当に思っていれば、そのことだけは伝わるはずだし、もしそれが間違っていたとしても、その先のどこかに私自身を変えていく機会が開かれているはずだ。本当に思ってないことを話しては、書いてはだめだ。しかし、それをときどき私はしてしまう。偉そうなことを話してしまうときはたいてい、自分の中に燻っている小さな不安や劣等感を忘れようとして、他者を否定するか、自分を否定するかしてその場を乗り切ろうとしているのだ。あらかじめ用意した言葉で自分の心のやわらかい部分を包み隠し、言葉の篭城を築き上げて閉じこもる。そんなことをしていてはだめだ。そこには現実の他者がいない。他者と触れ合うことなしに、自分を変えていく痛みも自分が変わっていく喜びもない。自分から離れられない。

こんなことを書いている時間があったら、さっさと服を着て髪を乾かして出かけよう。昨日から目が疲れて痛みもあるから、緑を見に公園でも行こう。帰り際に目薬でも買おう。

〈更新中〉