読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

どうやったら生きていけるんだろう

一昨日、夕食に新潟駅前でラーメンを食べた。接客をしている店員さんを見ていると「おれには絶対にこういうことはできないな」としみじみ感じる。注文するときやお冷のお代わりをもらうとき、私はあまり大きな声を出して店員さんを呼ぶことができないのだが、その日も私が空のコップを手に取りながらしばらくそれを見つめていると「お注ぎしましょうか」と店員さんが駆け寄って来てくれた。私のことを何も知らないはずの彼女がそれでも私に親切に接してくれたのは、それが彼女の仕事だからだ。私にはきっとできない。なんというか、私は不特定多数の人に同じように接しなければならない状況になると自分がどのような態度で振る舞ったらいいのかよくわからないのだ。演技しているような自分の振る舞いに居心地の悪さを感じてしまう。

たまにこういう気分を味わうために街に出るのも悪くない。酒に酔った背広姿の中年男性、待ち合わせをしている様子の清潔感のある若い男性、友達と再会して歓喜の声を上げている女性二人組、品のある洋服店でパリッとした制服に身を包んでいる女性従業員、だるそうな顔をしたコンビニの男性スタッフ、赤信号を走って渡るスーツ姿の男性、すれ違いざまに目が合ってしまった初恋の人に似ている若い女性、おそらく何らかの障害を抱えているように見える少女と彼女を背負う中年女性、座席の隅を陣取って辺りを睨むように見つめている髪の長い男性。街にはいろいろな人がいる。そしてその中の一人として私もいるのだ。これから私はどうやって生きていくんだろう。どうやったら生きていけるんだろう。

前回は、早寝早起きをして生きていきたい、なんてふざけて書いてしまったけれど、でも私の場合、人生について真剣に考えるといつもロクなことがなかったというのも、また疑いがたい事実のような気がしている。思えば大学に入学したくらいの頃から「知らない間に大人になってしまったんだなぁ…人生はもう始まっているんだなぁ…」という倦怠感がいつも私の身体にまとわりついていて、ときどきその反動から今までの全てをリセットして初めから何もかもやり直してしまいたい衝動に駆られることもあった。他の人たちはどうやって生きているんだろう。何もかもわかったような顔をして生きているように見えるけれど、その確信はどこから来るんだろう。何が楽しくて生きているんだろう。本当にそう感じていたということもあるけれど、今になって思えば、そんな風にさえ考えていれば自分の目の前にあるものからいつまでも逃れられるような気がしていたからなのかもしれない。現実に対してずっとぼんやりとした感覚を抱いたまま多くの時間を無為に過ごしてきてしまった。

世界をおおいつくす「愛の新自由主義」―—vol.3|生きる理由を探してる人へ|大谷ノブ彦/平野啓一郎|cakes(ケイクス)

さっき読んだ記事の中に「愛の新自由主義」という言葉があった。「新自由主義」という言葉を使うとどうしても「悪いのは時代のせいだ」「悪いのは社会のせいだ」というような〈自分の人生の問題を社会という漠然とした何かに責任転嫁しているような感じ〉が醸し出されてしまって最適な言葉としては推しがたいところがあるのだけれど、しかし私にはパッと目にしただけでなんとなく言わんとしていることが分かるような気もしてしまったのだった。つまり経済格差が広がっているようにものすごく注目される人と全然注目されない人の格差も広がっているというような話だろう。

「愛」と言うと大袈裟だけど、自分が承認されること、誰かに好ましく思われること、誰かに親切にしてもらうことは、私にとってずっとどこからか突然降ってくるような出来事であり、ただキッカケを待つことしかできないものだという感覚があった。要するに私は人付き合いが下手であり、他人との適切な距離感が掴めなくて苦労することが多い…なんてことをここに書くのは果たして「正解」なのだろうか。みんな自分の本当に思っていることだけを話してくれたらいいのに、適当なウソを吐く人たちが多すぎるせいでソッチが基準になっているような気がするのは私だけだろうか。

でも。とか言って私も適当にウソを吐きながら生きているということを忘れそうになっていた。あ、だめだこれ以上考えるの面倒くさくなってきた。収集つかないけどやめよう。

〈更新中〉