1月4日(木)

新しい年が始まった。12月は完全に冬眠していたけれど、1月の私は何か動きがあるのだろうか。自分は放っておくと「おれは何がしたいんだろう」「これからどうやって生きていくんだろう」みたいなことばかり考えてしまうみたいだから、寒くてもなるべく外に出るとか、考えるならせめてブログに書いて公開するとかして、内に閉じこもりがちな自分の精神をなるべく外へ開放させるようにしたい。わざわざ他人と会うのは億劫でも、誰かに一方的に自分の話を聞いてもらいたくなったようなときに、こうやって気軽に書いた文章を公開できる場所があるのはとても良いことだなあ、と書きながら改めて思う。今年もまたほそぼそと書き続けていきたい。

大晦日からずっと風邪を引いていたのだけど、今日は少し回復してきて、軽く外にでも出掛けようかという気分になってきた。3時頃、自転車に乗って郊外のショッピングモールに向かい、音楽を聴きながら適当に店を回ったりした後、フードコートでうどんを食べた。祖母からなんだかんだお年玉をもらってしまっていたので、なんとなく少し乱暴にお金を使いたくなって、意味もなくノートを数冊買った。このノートをどうやって使うのがいいだろう。新学期になる度に新しいノートを買っていた学生の頃とは違い、今の私にはもう覚えなければならないことも、計算しなければならないこともない。

しなければならないことを自分で見つけるのはむずかしい。今の私は、何かをしなければならないと思うことからほとんど完全に解放され切った毎日を過ごしているけれど、この状態がはたして私にとってほんとうに幸せなのかどうかはわからない。よく「やりたいことだけをやって生きる」ということがとても素晴らしいことのように言われることがある。私自身、そういう風に思うところもないわけではないのだけれど、自分の行動や選択に関する何もかもの原因をすべて自分の「やりたい」という気持ちだけに帰着させるのは、逆に、あまりにもしんどすぎるのではないかと思うときもある。私は買い物をしたいからショッピングモールに行ったのだろうか。うどんを食べたいから、うどんを食べたのだろうか。たしかにそういう面もあるけれど、それだけかと言われれば必ずしもそう言い切れない。

何かの行動を起こしたり、何かの態度を表明したりするよりも前に、私の中にはまず色んなことに対して「本当はどうだっていい」と思っている自分がいる。私にはどうも、何かをやりたいと思う気持ちより、このどうでもいいと思っている気持ちの方が確かな感じがする。何もやりたくないというのとも違う。上手く言えている気がしないのだけれど、やりたいともやりたくないとも言い切れないことの方がもっとたくさんあるのではないかとなんとなく思う。

帰り道に本屋に寄った。そこで立ち読みした社会学者・岸政彦さんの『断片的なものの社会学』がすばらしかった。さすがツイッターで話題になっているだけのことはあった。題名に社会学と名が付いているけれど、エッセイのように読みやすくて、ありがちな結論めいたものを避けているように見えたのもまた良かった。まだ少しだけしか読んでいないので、明日また立ち読みしに行こうと思う。

〈更新中〉