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自分で自分の病を治す

何かを楽しいと感じるということは、必ずしも何か美味しい料理を食べるとか、素晴らしい映画を観るとか、美しい景色を眺めるだとか、心地よい音楽に身を委ねるということではない。まず自分自身の心が目の前のものを素直に楽しめる状態になっていなければ、たとえ料理がどんなに美味しくても、たとえ映画がどんなに素晴らしくても、たとえ景色がどんなに美しくても、たとえ音楽がどんなに心地良くても、何の感動ももたらさないことは往々にしてある。目の前にあるものが客観的にいくら「素晴らしい」とされていたとしても、それが私にとって何なのか、主観的にどう感じられたのか、というのは別の話だ。自分を楽しませてくれる何かを探す前に、まずは自分自身が何かを楽しいと思える状態になっていなければならない。

では、目の前のものを素直に楽しめる状態とはどういうものだろう。それは、子供の頃のことを思い出せば、なんとなくわかるような気がする。子供の頃、私はエンピツとコピー用紙があれば、いつまでも絵を描いて遊ぶことができていた。上手いか下手かなんて気にしない。ただ描いていた。輪ゴムやセロハンテープや粘土や木の枝などを使って自分なりの遊び道具を発明することだってできた。しかし、当たり前だけど、歳を追うごとにそんなことはしなくなる。年齢に応じて「遊ぶ」という言葉の意味するものは変わっていき、高校生くらいになればもう「カラオケに行く」とか「買い物に出掛ける」くらいの意味に擦り替わっていた。いつしか決められたやり方で他の人と同じように「遊ぶ」のでなければ、「遊び」とは言えないと思うようになった。ただ、その頃にはもう熱中できるほどの面白さは感じられなくなる。さらに大学生になると「飲み会」や「イベント」など周囲で「遊び」とされているものがあまりにも自分の感性とかけ離れていたため、自分の中で「遊ぶ」という言葉の意味が完全に理解できなくなった。やはり本当の意味で「遊ぶ」とは、子供の頃のように周囲の視線を気にすることなく遊ぶということなのではないかと思う。客観的に見ればただ無意味なだけの行為に純粋に没入することができていたのは、おそらく幼少期の頃だけだったと思う。

私はとっくに二十歳を過ぎているから、社会的には当然もう子供とは言えない立場にある。しかし、どういうわけか最近ことあるごとに、私は未だに自分で自分のことを子どもだと思っている、ということをよく感じる。そしてそのことは、目の前にあるものを楽しんだり、他人と友好的な関係を築いたりする上でとても良い作用を及ぼしている気がする。少なくとも、そう思えるようになってからの方が以前よりいくらかマシな人生になってきている気がする。

去年の一月くらいから、ふとしたときによく自分が子どもだった頃の記憶を思い出すようになった。最近は、あまりにもよく思い出すから、思い出している状態の方が自然になって、あたかも自分が子どもの頃の自分に戻ってしまったかのような感覚に陥るときさえある。例えば、今まさにそうなのだが、私は寒くなるとよくリビングの床にうずくまってストーブに尻をあぶりながら暖を取るのだけれど、子どもだった頃の私も、そういえばまさに同じような格好で暖を取っていたことを思い出す。ふと思い出した記憶が目の前の景色に重なると、大人になった私がもう一度それをやり直しているような感覚に包まれる。冬になると、私はよくストーブの前に敷かれた半畳ほどの小さな絨毯の上にうずくまりながら、その絨毯の幾何学的な模様を迷路に見立てて、指を這わせて遊んでいた。学校から帰宅して、夕食がテーブルに並ぶまでのなんてことのない時間。ランドセルに乗った雪を石油ストーブの上に落とすと、ジュワッという音を立てて一瞬で蒸発していくのを見るのが好きだった。お腹が減って夕食が待ち切れないと、祖母にオカズノリをもらって食べていた。ふとしたときに、現在の自分に呼応して過去の記憶が呼び起こされる。そういうことが、最近増えてきた気がする。

そういう、自分で自分が子どもの頃に戻っているかのような感覚になっているとき、私は目の前にあるものを比較的素直に楽しめているような気がする。楽しむと言うより、自分の意識を自分以外のところに向けることができている、と言った方が感覚的に近いかもしれない。早く経済的に自立しなくては、とか、どんな仕事が自分に向いているんだろう、とか、他人からこんな風に見られたい、とか、どういう自分でありたい、とか、自分と世の中との間にどう折り合いを付けていくかということをひたすら悩み続けているようなときとは、全く違う状態になることができる。ただし、当たり前だけどずっとそうしていられる訳ではない。自分で自分のことを考えている内にひたすらモヤモヤが募っていくような、そんな冴えない時間も、相変わらず、一日の内のかなりを占める。

 

自分以外のことに意識を注ぐことができれば、自分について考えて悩むことはない。ある小説家が、小説とは薬のようなもので、自分で自分を治療するために、自分が罹っている病に効く薬を作っている、という話をしていたことがあったけれど、何かに意識を注ぐということはつまりそういうことなのかもしれない。子どもの頃のことに想いを馳せると、上手く言葉にして反論できなかっただけで、必ずしも腑に落ちないまま仕方なく受け入れなければならなかったことがいくつもあったことに気付く。そういうものを大人になってから改めて語り直すことができたとき、私は子どもの頃の自分にまた一つ近付けたような気になる。目の前のものを素直に楽しむためには、まずは自分が罹っている病を自分で治さなければならない。