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空虚さ

私は、自分の内側に渦巻いているどろどろした感情をとにかくどこかに吐き出さなければやっていられないときがある。ふと気付いてしまったことや、気になってしまったこと、目に付いてしまったこと。少しでも違和感を感じたら、私はそれを言葉にしないではいられない。考えることが好き、というような悠長な話ではなく、それを言葉にしなければ、崩れかかっている自分を自分の力で修復し、支えることができないのだ。

本来であれば、私がここに書いているようなことは、自分の内側に閉じ込めたままにして漏らさず、一人で消化して何事もなかったかのように済ますべきものなのかもしれない。そうでなくても、個人的に信頼できる友人や恋人などに話を聞いてもらったり、日記やメモ帳などにひっそりとしたためたりして、少なくとも不特定多数の人の目に触れるようなところには、思っていることをそのままぶちまけるべきでないのかもしれない。しかし、私にはそれができない。たとえ、この人は常識がなくて危険な人かもしれないとか、屁理屈ばかり並べ立てて全く憐れな人だと思われたとしても、私には自分の思っていることを、なるべく誤魔化さずに言葉にしたいという衝動がある。そしてそれはブログだけでなく対面であっても変わらない。

思っていることを言わないで、どうして他人と関係が築けるのだろうか。私はもう表面的なノリだけを合わせる会話や、当たり障りのない話題ばかりでいつまでも核心に触れないやりとりに、心底うんざりしているのだ。相手を傷付けないように注意深く気を遣いながら、時々、ガス抜きをするようにそこにいない誰かの陰口を叩いて、互いが同類であることを確かめ合う。そんなことをして何になるんだろうか。一人でいられない寂しさは、物理的に同じ空間を共有したからといって、必ずしも慰められるものではないはずだ。少なくとも、今までだってずっとそうだったじゃないか。同級生と話をしても、恋人と話をしても、家族と話をしても。

いつしか私は、相手が共感してくれるかどうかに関わらず、とにかく自分の心の中にあることだけを言葉にしたいと思うようになった。そうすることができるようになりたいと思った。それは、そうしなければ、生きていくということの空虚さに耐えられなかったからかもしれない。どうして勉強しなければならないのか。どうして働かなければならないのか。みんながそうしているから、とか、そうしないと世の中から置いてけぼりにされるから、とか、社会に適応することばかり考えて、誰もが子どもの頃には当然湧き上がってきていたはずの疑問を誤魔化してしまうくらいなら、なんとか自分なりに言葉にして、生きているということを納得したいと思った。疑問に思うことさえ許されないなんて、そんなの寂しすぎると思った。

私は他人と議論することが好きだ。私から見えている世界があまりにも空虚だから、他の人からは世界がどのように見えているのかを知りたいという気持ちがあるのだと思う。口喧嘩をすることもそれほど嫌いではない。苦笑いや愛想笑いをしている内にぼんやりと時間が過ぎてしまうくらいなら、今までの人生で培ってきた世界観を互いに破壊し合うような、そんな劇的な場面を心のどこかで求めている。私は、自分というフィルターを通して見ることのできる世界が、多くの場合それほど幸福なものには感じられないから、それを破壊してくれるような誰かや何かを知らず知らずに求めてしまうのだ。それはあまり良いことではないのかもしれない。

私は、本当は、楽しいという気持ちが分からないのかもしれない。ある人に、私は楽しい人と一緒にいたいと言われたことがあったけれど、私にはその言葉が信じられなかった。楽しいという気持ちはそれほど確固たるものなのだろうか。相手が本当は何を考えているのかという疑念や、私の人生の選択はこれで間違っていなかったのだろうかという不安を、何もなかったかのように消し飛ばしてしまえるほど激しい感情なのだろうか。私も私で異常だと思う。本当なら、何も考えずに生きていければそれが一番いい。でも私はどうしても考えてしまう。現実の空虚さに耐えられず、それを抽象的な何かで補おうとしてしまうから、だから私にはもうそうやって生きていくしか道はない。少なくとも今の私には、目の前の現実が全てであるかのように生きていくことはできない。