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独り言

最近意識するようになったのだけど、私は一人でいるとき、それはもうよく独り言をしている。あまりにも一人でいろんなことを話しているから、その要領でネット配信とかやってみたらいいんじゃないかと思ってツイキャスライブ配信をしようと試みた(けど恥ずかしくなっていつも数秒で閉じる)のも一度や二度のことではない。そのくらい独り言をしている。たまに街で独り言をしながら歩いている人とすれ違うと気味が悪くて思わず蔑みの視線を送ってしまうことがあるけれど、たぶん私も何人かからは蔑まれながら街を歩いているのだと思う。話したいことは山ほどある。でも似たようなことを考えている人はそんなにいない。だから私は独り言をする。ブログを書くのも独り言みたいなものだ。

私は他人と話すのがそんなに得意ではない。とくに電話をかけるのが苦手だ。今、私は自分から電話をかけなければならない案件をいくつか抱えているのだけれど、明日しよう明日しようと思いながら全くできていない。他人との話し方が分からなすぎてマクドナルドで注文することさえできなかった数年前に比べれば、今の私はかなり他人と話ができるようになった方ではあるけれど、よく考えたら私にはまだまだ社会生活を送っていく上で困難をきたすような部分がある。ていうか、だからこんな感じの生活になっているのだった。

私は、自分の思考回路の中を生きていくことしかできない。その中で最適な行動を選択していくことしかできない。でも思考回路自体になんらかの欠陥や偏りがあった場合には、もう手の施しようがない。「考えているばかりでは何も変わらないよ」みたいなことは死ぬほど言われてきたし、自分でもその通りだとは思うけれども、でも、そんなことを言われてもやっぱり何も変わらないのだった。思考で思考を変えることはできない。それは自分の思考回路そのものが、思考以外のものに依存しているからだ。

と、そんなことを考えていたら、一階から「おーい、おばあちゃんいねかなー」という祖父の新潟弁が聞こえてきた。階段を降りて祖父の話を聞くと、祖母がどこにもいないという。「トイレにいるんじゃない?」と私が言うと、「いやいないんだよー、居間に行ってもいなかったし」と祖父が言う。見ると現にいなかった。私はすぐ近くの祖母の化粧部屋を見た。いた。髪をとかしている祖母と目が合ったので、事の顛末を話す。「じいちゃんが、ばあちゃんがどこにもいないって言うから(探してたよ)。ばあちゃん、徘徊してるんじゃないかって」と私が言うと、「私が徘徊したら終わりだこって」と祖母が言う。皆で笑う。かつては威張り腐っていた祖父が最近認知症になったおかげで、祖父母の家にいてもこんな笑いが起こるようになった。深く話をしようとすると必ずしも意見が折り合わない私たちだけれど、こんな形で笑い合えるのならそれはそれでいいのかもしれないな、と、ほんのり思った。

祖母の話によると、叔母の決定で、来週の月曜、私はカウンセリングに行くことになったらしい。さっき、電話しようと思っているけどできないと書いたのは、実は心療内科のことだった。叔母らしい、と思う。意外な形でカウンセリングを受けることに決まったけれど、決まったからには行ってみようと思う。自分では、こういうことはやはり自分で決めるべきだとずっと思ってきたけれど、でも、きっとこのままの私では決め切れなかっただろう。変えよう変えようと思っても、変わらない。変わらなくてもいい変わらなくてもいいと、そう開き直ろうとしても、腹の底からは思い切れない。自分で自分を支えていくのは大変だ。もっと他人に頼れるようになりたい。

(更新中)