具体・抽象

久しぶりに文章を書いたら、頭が疲れてきた。こめかみの辺りがジンジンと熱く、重くなり、触ると脈を打っているのが分かる。一人でいると再現なく考え続けてしまうから、やはり私は定期的に他人と話す機会を作った方が良いのだろう。自分の頭の中でだけ考えているとすぐに容量がいっぱいになって、それ以外のことが手に付かなくなってしまう。

東京滞在中、私は参加するだけだったはずのトークイベントになぜか登壇することになったのだが、どういうわけか、二、三十名の人を前にしても自分がピクリとも緊張していないことに驚いてしまった。なんなら、聴衆一人ひとりの目を見つめられるほどの余裕さえあった。登壇している人たちとの間に関係が積み重なり、それなりにどのような会話が展開するのか予想できるようになってきたということもあるだろうけど、それにしても、今になって振り返れば不思議なほど平常心だった。どういうわけだろう。

そういえば、最近は初対面の人と会ってもほとんど緊張しなくなってきた。初めて会う人や親しいのか親しくないのか微妙な距離感の人に対して、昔だったらちゃんと自己紹介しようとしたり、なんとか会話を繋げようとしたりしたのだろうけど、そういうことを無理にしなくなってから、自然と自分がどんな風に振る舞えば気分良くその場にいられるのか、分かってきた感じがある。究極的に言えば、自分が心地良い時間を過ごせればそれでいい。話したくないときは話さなければよく、話したいときにだけ話せばいい。「こんなことを話してもどうせ友達になんてなれないのにな」と思うことは無理に話さなくてもいいし、そんなことを話すくらいだったら、黙って水を飲んだり飴を舐めたりしていた方が充実した時間を過ごすことができる。どんな場面でも応用可能かどうかは知らないけど、面接とか葬式とか、そういう本当にちゃんとしなきゃいけない場面以外では、なるべく自分自身が一番ラクでいられるように振る舞いたいと思う。

そういえば、先日受けた心理検査に「抽象的な思考が得意」という分析があって、腑に落ちたことがあった。たしかに結果を見ると、語彙力や抽象的な思考能力を表す項目の数値だけが異様に高かった。受けたテストは、提示された用語を自分なりに噛み砕いて改めて言葉にし直すというもので、例えば「『うららか』はどういう意味ですか?」「『森羅万象』はどういう意味ですか?」というような質問をされた。答えに窮するようなものもたくさんあったけれど、ふしぎとテストを受けていて楽しかったのを覚えている。それは、今になって思えば、似たようなことを私が日常的にしているからかもしれなかった。

私は他人と会話していて、相手の話していることを一発で理解することができないことがたくさんある。何か質問をされたときに、相手の言葉の使い方が自分と違うために、「それってこういう意味ですか?」「それは言い換えるとこういうことですか?」という質問を投げかけなければ、相手の言わんとしていることが理解できず、会話が続けられなくなる。私にはどうも、言語というものはそもそも単語と意味が一対一対応している(一義的に決定されている)わけではなく人によって使い方も違えば指し示そうとする内容も違うのではないかというような感覚があるとでも言えばいいのか、注意深く相手の言葉の使い方を吟味しないと相手と自分のイメージする価値観のズレがどんどん大きくなってしまうから、ついつい相手の話の腰を折るような質問が増えてしまう、みたいなところがある。この辺りのことは、まだ自分でも上手く整理できているわけではないので、関連書籍を読むなどして考察を深めたいところではあるけれど、ともかく、初めから同じ価値観を共有している前提で話が進んでいくようなときは思わず横槍を入れないと話についていけなくなってしまう。そういう傾向があるから、抽象的な思考の項目が延びたのではないかと思う。

人それぞれ、考えていることも感じ方もまるで違う。なのにどうして話をしたり、一緒に笑い合ったりできるのだろう。しかしまあ「お風呂はあったかいね」とか「ご飯はやっぱりおいしいね」とか、そういう超具体的な会話をしているときが一番幸せな感じはあるので、なるべく余計なことを考えないで済む生活を送りたいなあとは思う。なんか上手くまとまらない。