ノリ

まだ中学校に上がる前のことだったと思う。同じ学区内にいつも一緒に登下校していた何人かの友達がいた。彼らとは学校でもよく話をしたし、家で一緒に遊んだこともあったのだけれど、「通学路が一緒だから」という理由で誰が誘うでもなく集まって、いつも一緒に話をしながら歩く登下校の道が、私は好きだった。クラブ活動にも所属せず、わざわざ放課後に誘ってまで一緒に遊ぶ友達もいなかった私にとっては、ずっと子どもの頃からの幼馴染でいつも同じメンバーが顔を合わせる登下校の道は、家とも学校とも違う特別な場所だった。小学生も高学年になると、少しずつ異性を気にし始めたり、学校での微妙な人間関係のバランスに神経を尖らせたりと、単に「仲良し」とか「友達」とかいう言葉では括りきれない人との付き合い方を意識するようになってくる。彼らとも、学年が上がるにつれて疎遠になり、中学生も半ばを過ぎる頃にはさすがに一緒に登下校することも少なくなってきたけれども、それでも学校で顔を合わせたときには、お互いが、それぞれの教室内でのポジションとはまた違ったノリを共有している感じがあって、私はなんとなく嬉しかった。そこでする好きなお笑い番組の話や下らない悪戯なんかが、私は好きだった。まだ、人が人を好きになることとか、誰かを仲間外れにすることとか、何も知らなかった頃の話だ。

この前、登壇したトークイベントの動画を見返していたら、一緒に登下校していた友達と下らない話をしながら歩いていたその頃の気持ちが蘇ってきた。どうでもいいような話ではあったのだけど、子どもながらにちゃんと面白いか面白くないかの基準があって、そこには単に雑談をするだけではない厳密な笑いの作法があった。私はその場で面白いと思ってもらうためなら、割と本気で体を張って笑いを取りに行っていたし、日頃テレビを観て面白いと思うことがあったら、今度会ったときに話してやろうとあらかじめネタを仕込んだりしていた。もちろん、今思い出せば「寒い」としか思えない恥ずかしいネタも多かったし、「面白いから」という、ある種残酷なただのその場のノリだけで、誰かを傷付けてしまったり自分が傷付いたりしたこともあったから、所詮は素人のお遊びに過ぎなかったと思う。けれど、少なくとも私はそこで、笑いというものはそれ相応の努力をしなければ生み出せないものであるという、とても大切なことを学んでいった感じがあった。なにより居心地が良かった。

思春期以降、他人の視線を気にすることで、私は少しずつ暗くなっていった。学校には学校のノリがあって、家庭には家庭のノリがあったから、それぞれの場所でうまくやるには誰か他の人たちの生み出すノリに合わせなければならなかったからだった。部活に入るようになると、いつも一緒に登下校していたメンバーとも、一層顔を合わせることが少なくなった。というより、顔を合わせても以前と同じようには話せなくなり始めていたと思う。学校内には自然と似たもの同士が集まるようにグループが出来上がっていて、そのグループの垣根を超えて話をするということが徐々に難しくなってきていた。野球部に入っている人は野球部員らしくなっていくし、サッカー部に入っている人はサッカー部員らしくなっていく。サッカー部の華やかさに憧れながら、「どうせおれは…」と思いつつ卓球部に入ることにした私も、他の人から見れば卓球部員らしくなっていたのかもしれない。学校内の権力構造で頂点の位置に君臨していたバスケ部員たちのあの悠然とした佇まいには、同性として「おれもあんな風になれたらな」と思わせるような格好良さを感じないわけではなかったけれども、所詮は生まれた星が違ったのだと諦めるより他に仕方がなかった。それ以降、私は自分の居るべき場所を見つけられず、今に至るのだった。