「SAN値」

同年代の人と打ち解けるのが苦手だった。とくに、大学に入学してから周囲の人に対して感じた違和感にはすさまじいものがあった。私は高校を卒業してから予備校の寮に入り、そこで一年間ほとんど誰とも口をきくことのない囚人のような毎日を過ごしていたので、高校から順当に上がってきた人たちやこれから大学生活を謳歌しようとする学生のノリに付いていくことができないのはおろか、そもそも他人とどう話したらいいか全く分からなくなっていたのだった。サークルやコンパやバイトや就活に自然と適応しながら「大学生」になっていく同級生たちを尻目に、私は一人で悶々としながら自分の頭の中の世界を作ったり壊したりするので精一杯だった。

そんな私は、同級生との間にささいなことで距離を感じた。たとえば、大学に入ってから、彼らは授業で使う用紙のことを「レジュメ」と呼んだ。私は初めて聞くその言葉に違和感を覚えた。高校までと同じように「プリント」でかまわないのではないか。どうしてわざわざ同じ意味のことを違う言葉で呼んでいるのか。上級生や大学教授たちが長年の慣習でそういう風に呼んでいるのならまだ分かる。私が疑問だったのは、昨日まで私と同じように「プリント」と呼んでいたはずの同級生たちが、何の躊躇もなく「レジュメ」と呼んでいたことだった。彼らは、今まで自分たちが「プリント」と呼んでいたそれが大学内では「レジュメ」と呼ばれているらしいことを察知すると、今までの自分たちの呼び方をあっさり捨て去り、新しい呼び方をさも自分たちがもとから知っていたかのように使いこなした。新入生歓迎会を容易く「新歓」と言い換え、卒業生を送る会を躊躇いなく「追いコン」と呼ぶ。他の多くの学生たちと同じように言葉を使い、上級生たちがしてきたように行事を開いた。そうして彼らは「大学生」になっていった。

私にしてみれば、彼らはただ同調圧力に屈しているだけのように見えたのだが、彼らにとってはそれが自然だったのだと思う。ちょうど高校卒業までの私が、学校や家庭を取り巻く「常識」を内面化し、自分の感受性と世間の期待とが区別の付かないくらい渾然一体になった状態で、さまざまな意思決定を行っていたように。

どこの集団にも、それが集団である限り必ず、ウチとソトを隔てる目に見えない境界がある。それは、内部の人間にしかわからない空気感だったり、わざわざ言葉にしなくても伝わる(とお互いが思い合っている)不文律だったりする。言葉遣いもそうだ。誰も「それをそういう風に呼ぶことにしよう」と明確に了解し合ったわけではないけれど、話をしている内にお互いの間で自然と言葉遣いが似てくるということはよくある。コミュニケーションが積み重なってくるほど、お互いに「わざわざ言わなくても分かる部分」が醸成されていき、それが相手に対する親しみや信頼を生んだりもする。逆に言えば、そういう部分は外部の人には分からない。内部の人にとっては言わなくても分かることが、外部にとっては言わなければ分からない。そこに境界がある、と言える。

 

さて。唐突だが、私は何年か前からよく若い人の間で使われるようになった「それな」という言葉が嫌いだ。前置きが長くなったが、今回言いたかったことはこれに尽きる。ホラーゲームなどの世界の一部では、プレーヤーがゾンビや怪物に接触して恐怖を感じたときに蓄積する「SAN値」という正気度を表す指数がある(一定の閾値を超えると発狂する)そうだが、私は同年代の人の口から「それな」という言葉が飛び出す度に「SAN値」が上がり、放っておくと思わず突っかかりたくなる衝動に駆られる。同年代の間で使われる俗語が、私は何から何まで片っ端から好きではないのだが、なかでも手っ取り早く「同調」を示す「それな」が最もタチが悪い。

ある社会学者が話していたことには、俗語や流行語にはそれを使っているもの同士の間で仲間意識を強める効果があるらしい。それはちょうど部族の内部で使われる合言葉のようなもので、お互いが同類であることを示すために使われるのだという。

先ほども述べたように、人と人がコミュニケーションを積み重ねていくと、次第に「わざわざ言わなくても分かる部分」を互いに共有するようになる。集団の内部にいるときほど、自分が集団に属していることを意識しない。外部から見たときに、ある人々が「得体の知れない何か」を共有しているように見えたときに初めてそこに外部と切り離された「集団」があるように感じられてくる。内部でしか通じない言葉を使うことには、そういう「わざわざ言わなくても分かる部分」をピンポイントで確かめ合えたような気になる心地良さがあるが、同時に外部の人に対して、そこに乗れない居心地の悪さや共有しているものが分からない得体の知れなさを感じさせることになる。俗に「内輪ノリ」と呼ばれるものが、それだ。

私は「それな」が嫌いだ。それはつまり「内輪ノリ」を外から眺めるのが不快ということかもしれない。自分には「内輪」と呼べるものがないから、他人が「内輪」で楽しそうにしているのを見ると嫉妬する、ということかもしれない。けれども全ての「内輪ノリ」が不快な訳でもない。見ていて不快にならない「内輪ノリ」と不快になる「内輪ノリ」があるような気がする。その違いはなんだろう。他人が楽しそうにしている姿を見てこちらまで楽しさが伝播してくるように感じる場合と、その反対に「SAN値」が蓄積される場合とがあるが、それらはどう違うのだろう。

煮詰まってきたので、一旦やめる。今日も暑いが、そろそろ出かけよう。部屋の中にいるとついつい考え事ばかりしてしまって良くない。 

(更新中)