「ゲストハウス」

この間、北海道へ旅行に行ってきたのだけど、そのときに一泊だけ滞在したゲストハウスがふつうにいい感じだったので、驚いた。そのゲストハウスがいい感じだったことに驚いた、というより、そのゲストハウスをいい感じだと思えた自分に驚いた、と書いた方が近いかもしれない。これは完全に偏見なのだけど、「ゲストハウス」と聞くと、私は「社交的な人たちがラウンジとかに集まってやたらワイワイしている」というような固定観念があって、なかなか自分からは近寄りがたいというか、近付いてもちょっとソワソワするというか、決して「嫌い」ではないけれどわざわざ「好き」と言うのもなんか違うというか、ゲストハウスそれ自体は別にどうでもいいのだけど「ゲストハウス好き」を自称している人を見かけるとなんか尻込みするというか(警戒するというか軽蔑するというか嫉妬するというか)とりあえず少し複雑な気持ちになるのだが、実際に入ってみたら、ふつうにいい感じだった。ふつうにいい感じで、驚いた。

何事も、斜に構えていたら良いというものではない。というか、斜に構えているときはだいたい自分の方がダメになっていることが多い気がする。反省した。自分を戒めたい。よく考えたら、今まで入ったことのあるゲストハウスで実際にイヤな体験をしたことなんてほとんどないし、あるとしても、多少気まずい思いをしたくらいだった。そしてそれも、いま考えれば、私自身の経験値のなさに依るところが大きかったように思う。

例えば、数年前に大学の友人と一緒に旅行へ出かけたときに泊まったゲストハウスでは、立ち上げや運営にまつわるオーナーの苦労話や自慢話を深夜まで聞かされねばならず辟易した思い出がある。友人はそのオーナーの話に多少なりとも感銘を受けていた様子だったけれど、私はその人の瞳が過剰に澄んでいるのが気になって、どうしても相手の話をまともに聞き入れることができなかった。頭から「自分のことが正しい」と信じ切っている人と話すのは、「これを話したら多分この人は怒るんだろうな」ということがなんとなく見えてしまい、それを避けようとしながら言葉を選んでいる内にだんだんと疲れてしまうことが多い。一時期、巷で「根拠のない自信を持て!」というような文言をよく耳にすることがあったけれど、「根拠のない自信」を持つがゆえに、相手に対して不必要に圧迫感を与えてしまうこともあるのではないかと思う。このまま彼に話をさせれば、きっといつかは私が信じるものとぶつかってしまう。そういう予感が、私と彼との間に微妙な距離を生んだ。

とはいえ、そんなことは折り込み済みで話をするのが、大人同士の会話というものだ。相手の信じる「正しさ」と自分の信じる「正しさ」をいちいち衝突させ合っていたら、ほとんどの会話が成立しない。自分の本音を相手にぶつけて、自分もまた相手の本音を受け止める。そういう真剣勝負のようなコミュニケーションを、私はついつい誰彼構わず吹っかけてしまいがちなのだけれど、穏やかに日々を生きている人たちにとってそんな風な粗野な人との関わり方はたぶん必要ないのだろう。建前の次元で互いの間合いを測り合うこともまた、この世の中を生きていくにあたって必要な技術なのではないか。最近になって、そう思い知らされることが増えてきた。

ゲストハウスに限らず、私には自分の先入観で他人との関わりをいたずら遠ざけてしまっている部分がかなりあるのだと思う。異なる考えを持った者同士が不用意に近付いて気まずい思いをしないようにするための工夫として、先入観を持つことそれ自体が悪いことだとは思わない。けれど、よく考えてみれば、気まずさを最初から完全に排除した人間関係なんてどこにも存在していないのではないかとも思う。先入観を持って見ている間は、自分が先入観を持っていることに気付けない。うっかり皮肉を言ってしまいそうになる自分とどう折り合いを付けていくか。それがこれからの私の課題だ。

(更新中)