目が覚めた。時刻は9時10分。頭がくらくらするのは収まったが、まだ布団に寝転んでいるからなのか、いまいち目が冴えない。チェックアウトまであと50分。そろそろ歯を磨いて、顔を洗って、服を着替えよう。

その前に、今朝見た夢が個人的に爽快だったのでそれだけ書き留めておく。夢で、私は中学生だった。ちょうど卒業の時期で、クラスメートたちは別れの挨拶などをして涙ぐんだりしていた。そんな中、私は一人の男子生徒の前までズカズカと歩いていき、いきなり罵声を浴びせた。「お前は今まで散々おれをイジッてくれたけど、てめえは本当だったらおれをイジれるようなタマじゃねんだよ!!調子に乗りやがって!!」みたいなことを口走っていた気がする。当時、イジられることで辛うじてクラスの中に居場所を得ていた私は、ウケることによって味わう快感と、それゆえに蓄積するフラストレーションを同時に感じていた。あれから十年近く経った今、夢の中で小さくそれが爆発した。爽快感があった。これでおれはクラスの中でもう絡みにくいキャラになってしまうだろうけれども、どうせ今日で卒業なのだからそれも関係がないと思えた。というかそもそも夢だった。いい夢だった。

 

思春期の頃を思い出すと、今の自分の在り方を考える上でヒントになることが多い。本来ならいじめられてもおかしくないほど気が小さかった私が、辛うじていじめられることなくクラスの中にささやかな人間関係を作ることができたのは、学校の成績が良かったために周囲から一目置かれ、自虐することによってそれなりに他人に気安くイジってもらえるよう心掛けていたからだった。どちらかが欠けていたら、私は周囲から孤立して学校に行けなくなっていただろう。現に、大学に行けなくなった頃の私は、学業成績によって自分を優秀に見せることもできず、イジられることによって自分なりに精一杯の親しみやすさを演出することもできず、素の暗さが前面に出てどう考えても近寄りがたい人間になっていただろう。今はどうか。きっと大して変わらないんじゃないか。今までとは違う人間関係の在り方を、いい加減私は覚えなければならない。

 

ホテルのロビーでお茶を飲み、少し歩いてマックに入った。午前中から体を動かしているからか、明らかに気分が良い。

 

それから2時間ほどパソコンをいじって時間を潰した。ネットで横浜辺りに宿を予約してから、ユーチューブでひたすら音楽を聴いた。音楽を聴いていれば、いくらでも時間が潰せてしまう。

 

しばらくすると、左隣の席に子連れの夫婦が座った。奥さんの方が、子供にやたらめったら注意しているのでなんか嫌な雰囲気だなあと思ったら、席に座ると夫の方も子どもを無視して仕事の愚痴を次から次へと垂れまくって、うわあと思った。夫の愚痴に対して、奥さんが言葉を返す。それが上手く聞き取れないのか、夫がその都度「ああ?」と上がり調子で聞き返す。その「ああ?」が私の耳には非常に耳障りで、もう移動しようと思った。ちょうど右隣に座った旅行客風の男性の体臭がきつかったので、いよいよ席を立つ踏ん切りがついた。そして店を出て、私は駅へ向かった。

 

いじめられないよう必死に生きていた思春期の頃を思うと、今になって思えば、自分が多数派につくことで他人を間接的にいじめていたこともあっただろうと、苦々しい気持ちになる。今は私ももうすっかり社会的弱者になってしまったけれども、当時は自分可愛さに多数派に取り入ることで「みんなと違うから」というだけの理由で無意識に他人を傷付けていたこともあっただろう。大学に行けなくなり始めた二十才くらいの頃になっても、私は古本屋で社会から落ちこぼれた若者についての本を読んでは、「まさか自分がそうなるはずあるまい」と、他人事に思っていた。彼らと自分は違うと思っていた。内心、見下していたのだった。今もまだ私にその気持ちは残っているのだろうか。だから自分を受け入れられないのだろうか。

 

私が「ふつう」の人と出会うとき、彼らは私を「自分とは違う人」として腫れ物に触るように扱うだろう。私には、彼らがそうする理由が痛いほどよく分かる。なぜなら、私もかつてそうだったから。いや、むしろ私は今でもどこかで自分で自分を恥じているのだった。私だって、私を見下す人と一緒に私を見下せたらどんなにいいか。こうなるはずじゃなかった、という思いがある。その思いがいつまでも胸に沈んでいる。

 

思い付くまま書き進めていたら、うっかり鬱っぽい所まで足を踏み入れてしまった。文章とは裏腹に、私の気持ちは久しぶりに清々しく澄んでいる。午後は、たい焼きか何かをつまみながら街を歩きたい。

 

上野に着いた。平日だというのに人がごった返している。道端に座って深呼吸をすると気分が良かった。知らない場所で知らない人たちに囲まれているというのも久しぶりの感覚だ。

 

ここでもう一度、さっき考えていたことの続きを考えたいと思う。こうして人混みの中を歩いているだけで、私は自分自身が一瞬で他人を属性によって見分け、判断していることに気付く。性別、身なり、年齢、美醜、障害の有無、日本人かそうでないか。そうやって他人を属性で判断することと、他人を見下すこと、差別することはどこがどう違うのだろう。私が心の奥で忌避しているところの「ふつう」の人からの見下しと、今、私がこの雑踏の一人一人に対して向けている眼差しとは、どこが違うのだろう。子供を感情的に叱り飛ばす若い母親の声に心をかき乱され、小便器に痰を吐き出す老人に眉をひそめ、何かしら体に不自由のあると思しき男性と反射的に目が合わないよう瞬時に視線を逸らそうとする自分。周囲を眺めながら、冷徹な目つきで相手を捉えて、また次々に視線を移す。どう思えば『正解』なのかは知っている。しかし、それは本当に私の本心だろうか。自分が恐れているはずの他者からの眼差しを自分もまた誰かに向けている。この矛盾をどう考えればいいのだろう。

 

自己嫌悪に陥っているとき、誰かの軽口を叩くことだけが心の癒しのように思えることがある。誰かを傷付けるということが自分を救うということに役立っている。でも、それに依存するようになるとますます他人は離れていき、孤独になっていく。

今では信じられないが、そういえば二十一歳くらいのときまでずっと、私は「他人を嫌ってはいけない」と思っていたのだった。以前にもこの日記に書いたと思うが、自分から他人に向けた「嫌い」という感情は全て自己嫌悪の裏返しで、自分が認めたくないと思っている自分の側面を相手に都合よく投影しただけの同族嫌悪に過ぎない、だから他人をいくら嫌っても自分自身が本当に見つめなければならない部分からは逃げていることにしかならない、と、そのように考えていた。基本的には、今でもその考えは変わらない。けれど、そう書いていた当時の私は、ある意味で観念的だったのかもしれないとも思う。あるべき価値観の中に自分を置いて、実際の生活の中で巻き起こる自然な感情の揺らぎを細やかに感じ取ろうとすることからは避けていた。他人を嫌ってはいけないだなんて、当時の私は本心からそう思えていたのだろうか。他人との関わりをどこかで避けていたのは、今も昔も変わらない。

気が付けば、私は半年くらい前から積極的に他人への嫉妬や愚痴を口にするようになっていた。以前より極端に落ち込むことは少なくなった気がするけれど、他人との関わりで苦労を感じることは依然として多い。特定個人のために向けられた「嫌い」は放っておくと肥大化して、いつしか自分自身の全て、もしくは他者一般を嫌ってしまいそうになる。そうなったら、この世界に私の場所はなくなる。

 

また暗いことを考え始めている。けれど、心はいたって健やかだ。もうかなり休憩したからそろそろ辺りを散策しよう。

 

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しばらく歩くと、ハーモニカを演奏する路上ミュージシャンがいた。素敵な音色にふいをつかれて、思わず目に涙がにじんだ。そういえば何年か前にハーモニカを買って練習をしようとしていた時期もあったなあ。帰ったらまた始めてみようか。

 

演奏は、結局最後まで聴いてしまった。ささやかながら投げ銭をあげたら、非常に人の良さそうな笑顔で感謝された。私も「素敵でした」などと声をかける。いやあなんて豊かな午後だろう。少し歩いてはベンチに座り、穏やかな気持ちになっている。なんだかもう軽く微笑んでしまっている。良い日だ。

 

ベンチに座ってツイッターをみる。なにやら今度の総選挙は大荒れのようだ。事態は錯綜しているし、人によって色々な考え方があり得るけれど、今回は民進党希望の党に取り入ったことで中道左派の投票先がなくなってしまったとかそんなようなことらしかった。無党派層は小池新党になびくのだろうか。どうなるんだろうか。私もどうしようか。

 

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マクロなことを考え始めるとまた観念的になって良くないので、目の前に生い茂るハスにとりあえず目をやる。あまり詳しくないので、これ以上ここで口走るのはよそう。お腹が空いてきたので、そろそろ移動したい。

 

漫画で有名な、東京都北区赤羽に来た。が、今のところ変わった光景には出会っていない。地方出身の私からしてみれば、街並みもふつうに都会だなあとしか思わないのが悔しい。腹が減ったので、とりあえず真っ先に目に付いたカツ丼屋で夕食をいただくことにした。

レジにて。料金が「853円」と表示されてあったので、千円札と五十円玉、それから一円玉を三枚、台へ置いた。けれども一向にお釣りが返ってこず、店員の中国人の方もなにやらあたふたしている。どうやら研修中の人のようで、しばらくしてチーフっぽい方が出てきて、目の前でレジのやり方を教えはじめた。でも、それにしても様子がおかしい。すると、よく見ると料金の表示が「730円」になぜか変わっていた。すかさず謝罪をして「すいません、値段を勘違いしていました」と声をかける。そのとき、ようやく店員さんは私と目と合わせて、笑いかけてくれた。それまで「どんな嫌がらせをする客だろう」と思われていたに違いない。店員さんには、なぜか「こちらこそすみません、研修中なもので」と謝られてしまったけれど、これはどう考えても私が悪かった。申し訳ないことをした。けれど、しっかり謝罪することができて良かった。

特定の言動を強いられる空間は苦手だけど、こういう風にふいに知らない人と軽く言葉を交わしたりする瞬間は好きだ。人付き合いは苦手だけれど、人と話すのは嫌いじゃない。むしろ好きだ。

 

日が暮れてきて、少し気持ちも寂しくなってきた。引き続き、街を歩こう。

 

公園にベンチを見つけたので、座る。荷物が重いので一日歩いているだけで体力をかなり消耗する。今日もよく眠れそうだ。

 

久しぶりにブログを書いている。今日は書きすぎたくらいに書いている。以前は自分のリハビリ的に、思ったことを吐くようにして書いていたのだが、最近は読む人のことを意識しすぎてどのように書いたら良いか分からなくなっていた。自分をよく見せようとすると、全く手も足も出なくなる。そもそも表現するということはかっこ悪いところも含めて自分を見せることなのではないか。けれど、他人の目に触れるものである以上、客観的な評価の眼差しから逃れられない。かっこ悪い、だけではだめだ。表現として完成しているとは言えない。自分を外に向かって開くためにも、必要な努力を怠ってはいけない。

今夜の宿を目指して横浜に向かう。電車に揺られて一時間ほど、今回の選挙について様々な論者が様々なことを言っているのをツイッターで見ていた。自分の人生さえろくに生きていないくせに、こういうときに野次馬的に旬な話題に飛びつくのはみっともないような気もするけれど、人々がそれぞれの立場・利害・感情に動かされてうごめていく様を見るのは、どういうわけか割と楽しんで見てしまう。そんなことをしているうちに、目的の駅へ着いた。

 

ネットで調べていた時点である程度分かってはいたことだが、予約した宿は思った以上の繁華街にあった。宿の場所を確認するためスマホで地図を見ていると、あるお店の場所を調べてくれないか、と女性に声を掛けられた。どうやらスマホが上手く作動しないようだった。私は「いいですよ」と、ちょうど開いていた自分のスマホの地図を見せ、店の名前を聞いて入力し、それを映した私のスマホの画面を、彼女のカメラで撮影してはどうかと提案した。それがうまくいくと、彼女は軽やかに私に感謝と挨拶をして、去っていった。

一瞬の出来事だったが、さすがにこの程度のことではビビらなくなっている自分に気付くと少しだけ心が弾んだ。それから、看板にキワドイ言葉が並ぶ、やたらと派手な街並みを連ねる風俗街を通っても、道端の強そうなお兄さんにそれほどビビらなくなっている。辺りをキョロキョロ見たり、背筋を曲げて歩いたり、俯いて歩いたりしなければいい。この辺りの店に私一人で入るには、まだかなり時間がかかるだろうけれど、それなりに変わってきている自分を少し頼もしく思えた。