#3

さきほど、あてどもなく道を歩いていたら、路上にツバを吐きつける三十代半ばくらいのスーツ姿の男性とばっちり目が合ってしまった。私はすぐに目を逸らしてそのまま等速で歩き続けたのだけれど、後ろの方から「おい」という、明らかに私に絡んで来ようとしているその男性の声が聞こえる。なおも無視して、半分無意識にあくびをしたりしながら歩き続けると、すかさず左斜め後方から「ああ、何も緊張してねえよってなあくびかよ、おい」という声がする。そのとき、私の頭は三つの自分に割れていた。「緊張」ってこういう時に使う言葉でもあるんだなあと思う自分。自分は全然びびってないと思っている自分。そうは言いながら、後ろを振り向くのがかなり怖い自分。次第に苛立ちを帯びた声が、左後ろから徐々に私に追い上げてくる。事態に巻き込まれてから一貫して正面を向き続けている私の視界にも、端っこの方にその男の姿がもう一度見えそうになっている。私は「めんどくせえな」という気持ちと「怖い」という気持ちと「めんどくせえな」とだけ思えたら格好良いのになあ、おれ、という気持ちが綯交ぜになって、スピードを保ちながら瞬時に右へ直角に方向転換した。怒気を含んだ声は、また私に向かって何かを言っている。私はそのまま来た道を折り返して歩いた。つけられているのではないかと怖がりつつも、そのまま真っ直ぐに歩き続けた。

 

私には、すれ違う人の目を無意識に見てしまうというあまり良くない癖があり、そのために知らない人とすれ違い様に目が合ってしまうことがよくある。しかし、今回のようにあからさまに絡まれたことは今までになかった。と、書いてから思ったのだが、そういえば今までにもちょくちょく絡まれたことがあったような気もする。ああそういえば、まあまあというか結構あった気がするなあ。高校の頃、なんとなくほっぺたを膨らませながら廊下を歩いていたら、髪を逆立てたラグビー部の強そうな生徒に「見たかあの顔、びゃっひゃっひゃ」という具合に嗤われたり、中学の頃、不良ぶるのを格好良いと勘違いした同級生にすれ違い様にパンチを食らわされて「びびっただろう、ひっひっひ」と挑発されたり、みんなで浜辺で焚き火をしていたらなぜか私だけが海を愛するおじさんに説教されたり。そう言えば、しばしば舐められがちな人生を送ってきたような気もする。どうしてなんだろうか。やはり見た目の問題だろうか。もう少し強そう服装に変えればいいのだろうか。強そうな服装ってなんだろう。

男の私でさえこんなに怖かったのだから、女の人が強そうな男に絡まれたりしたら、さぞ怖かろう。いやー怖かった。