#5

時刻は10時58分。宿の屋上にて、洗濯機が回り終わるのを待っている。宿のスタッフの方が大変親切で、チェックアウトは11時だというのに、洗濯が終わるまで中で待っていても良いと言ってくれた。ありがたい。布団もフカフカだったし、値段もかなり安かった。たっぷり眠れたおかげで、無事、体調も回復している。最高の宿だった。

明るく日が差し込む屋上で、風に吹かれながら時間を潰す。縁から外を見下ろすと、活動しはじめている庶民的な商店街の姿が見えた。WiFi で音楽を聞きながら、ゆったりとした時間を過ごす。

スマホのカレンダーを開くと今日の日付の欄に「おじいちゃんの誕生日」と書かれてあった。暇だし気分も良かったので、久しぶりに実家(祖父母の家)に電話を掛けてみる。「もしもし」という祖母の懐かしい甲高い声が電話口から聞こえて、私は「もしもし稲村彰人ですけれども」とわざわざよそよそしくあえてフルネームで自己紹介するという、なんとなくいつも自分の中でお決まりになっている遊びをした。それから二十分くらい、祖母と電話で話をする。

祖母によると、私の声は一ヶ月ほど前に実家で話した頃よりも明るくなっているそうだった。84歳になったばかりの祖母も元気そうでなにより。電話では主に、父が膝を痛めて気分が暗くなっているらしい、という話と、88歳になるおじいちゃんはいつものように頓珍漢なことを言っているらしい、という話と、やっぱり笑って生きていたいね、という話と、おばあちゃんはいつもテレビの前で一人で笑っているから元気なのかもね、という話をした。選挙の頃には帰って来るかい、と聞かれたので、たぶん帰ると思うよ、と答えた。

洗濯を終えて、乾いた衣服をバックに詰め込む。ポケットにちり紙が入っていたのか、乾燥機を開けたときに大量の細かい紙くずが発生してしまった。しかも、それらを人工芝がきれいに敷かれた屋上の床にこぼしてしまったので、30分くらいかけて一つ一つつまんで拾うことにした。これだけ良くしてもらったのに、汚して帰るわけにはいかない。

バックを担いでフロントに戻り、ありがとうございました、と、多めに挨拶して外へ出る。近くには肉屋や八百屋が並んでいる。滞在費を削るために、今日一日くらい断食してみようかなと思っていたのだけど、店先に置かれた果物が美味しそうだったので思わず中へ入った。バナナと麦茶を買って、また街を歩く。

近くに小さな公園を見つけたので、ベンチに座ってバナナをほうばる。公園には先客がいて、一匹の猫がニャアニャア言いながら、近ず離れずの距離で私を見つめてきた。腹が減っているのだろうか、と思い、とりあえず手に持っているバナナをひとかけら口でかじって投げてみる。猫は近寄って地面に落ちたバナナの欠片を鼻先でつつく、けれどもやはり口にはしなかった。あらためて辺りを見渡してみると、公園には何匹も猫がいた。皆、心地良さそうに日向ぼっこをしている。

そんな折、近所に住んでいる風のおばさんが自転車に乗ってやって来た。すると、猫たちはのそのそと動き始めておばさんの下へ寄っていく。おばさんは「あれ、今日はしろちゃんが来ないねえ」なんて言いながら、買い物袋で一杯になっている自転車のカゴから、汁気をのある何か美味しそうなサバの味噌煮的な惣菜をパックから取り出し、猫たちに与えていく。反対側に目をやると真っ白い毛の猫が遅れて寄って来ているのが見える。なんとも日が暖かく、気持ちの良い時間が過ぎていく。

バナナの皮を捨てに、コンビニへ入る。レジの前付近にゴミ箱が置いてあるのが見えたので、バナナの皮を持ってゴミ箱に向かう。すると店員さんが、私を何か買いに来た客だと思って、接客の対応をしようと身構えはじめる。しかし私はゴミ箱に用事があっただけなので、目の前を素通りしてスッとゴミ箱へバナナを押し込んだ。すると、明らかに私へ冷たい視線が突き刺さってくるのを感じる。まあ家庭ゴミを持ち込んでいるわけだから、私に非があると言われても仕方がない。「申し訳ないので、さすがにこのまま帰るわけにはいかない」と思い、取り立てて欲しかったものはなかったけれど店内を歩き回り、カロリーメイトを一つだけ手に取る。レジに向かうと、目の前にはおでんが見える。「ご機嫌を取るためにとりあえずおでんでも買っておこう」と思って「あ、すいません、大根をひとつ」と言うと、店員さんは「自分で取ってください」と突き放したように一言。よく見るとたしかにおでんは自分で取ってからレジに持ってくるタイプだったのだが、しかし、明らかに冷たく扱われているのを感じる。私はすぐに「ああ…じゃあ…すいません…やっぱり大丈夫です」と言って、そそくさと店を出た。自分は素のままで話しかけているのに相手にはマニュアルで対応されると、辛いものがある。私はどこでコミュニケーションを失敗したのだろう。やはりコンビニでゴミを捨てようと思った時点で間違いだったのだろうか。

いる場所が変わっても、やることはそれほど変わらない。コンビニから出た私は、ひとまず近くの図書館に向かった。中にはソファが置いてあった。まふっとしていて気持ちが良い。そのまま二時間ほどうたた寝をした。

(更新中)