#11

昨日は日が落ちてからもじっとりと額に汗がにじむくらい暑かったのに、今朝は驚くほど空気が冷たい。起き抜けに、かろうじて持って来ていたセーターを一枚バックから取り出し、長袖のシャツの上から重ね着をする。けれど、それから歯を磨いたり布団を畳んだりなんかしているうちに、どうやら今日の寒さはセーター一枚くらいでは太刀打ちできなさそうだと思うに至り、身震いしながらもう一度バックをさぐり、さらに一枚ヒートテックの下着を着込むことにした。外は雨が降っている。冷たい雨だ。

知人宅に滞在して、今日で三日目になる。昨夜は、唐突に鍋パーティーのようなイベントが催され、のべ7人くらいの参加者らと酒を酌み交わす機会があった。久しぶりに酒を飲んだ。

 

人が何人か集まっている場所で、どのように立ち居振る舞うか。一人で過ごしているときの自分の感受性を保ちながら、複数の他者からの視線をどうさばき、受け答えしていくか。ともすれば、ただ声が大きいというだけで内容的には全然おもしろくない人の話に皆が愛想笑いをして、全体的に「まあ、みんな笑ってるし、なんとなくこれで笑っておけばいいか」的な、ふわっとした表層的なところで話が安易に収まってしまいがちな空間において、自分は自分を見失わずにどう立ち居振る舞うことができるのか。できないことだらけではあったが、いろいろと勉強になることの多い時間だった。

具体的には、久しぶりに「普段、何をされているのですか?」という(私がこの世で最も苦手とする)質問を初対面の人からされて、不快になった瞬間があった。その質問が私の耳に入ってきた瞬間に、私は表情に「なんでそんな質問するのですか(その質問をする必要はありますか)」という気持ちを匂わせて、会話のリズムを不自然にワンテンポ遅らせたり、目の前の料理に視線を移して話題に興味がないことを察してもらおうとしたり、とっさの判断で、反射的に、相手も自分も傷付けずに良い感じに話を受け流す自分なりの工夫を試みたのだが、失敗に終わった。私がその質問に答えたところで、何かしら実りのある方向へ話が転がっていかないのは、目に見えている。話の糸口を掴むにしても、あまりにも手垢の付いた紋切り型の切り出し方で、なんというか、空虚だ。空虚な話はしたくない。お互いに取り立てて話したいことがないのなら、わざわざ話をしなくたっていいではないか。私は目を逸らす。けれど、相手は無邪気な眼差しで私を見つめつづけている。投げかけた質問に対する私の応答を、健気に待っている。さらに辺りに目をやると、その隣に座る人もなぜか同じ目つきで私を見ている。なぜだ。なぜどうでもいいと本心では思っているはずの質問を相手にぶつけて、それにきちんと答えが返ってくることを当然のように思っているのだ。余計な負担をかけさせるな、私に。

と。人が複数で集まると、往往にしてこういうことが起きる。複数人からの無邪気な眼差しに私はいよいよ根負けして、その時はなにか適当なことを話して、茶を濁した。不全感が胸に残る。場は、何事もなかったように流れていく。 

もっと繊細にものごとを捉えられるようになりたい。その上で大胆に、自分で場を回していけるだけの度量を持ちたい。そのときはそれで終わってしまったが、人が集まる場所に自分を晒すと、自分の中の何かが鍛えられているような感覚になる。しかしまあこんな出来事だけをここに書いてしまった訳だけれど、久々に会う友人と話ができたりして別に会自体が楽しくなかったというわけではなく、久しぶりにこういう経験をするのも悪くないな、と感じた。というか、こんなことばかり書いているから私はダメなのかもしれない。ついつい余計なことばかり考えてしまうのは、他の人たちと違って飲み会のような席を自然に楽しむことができないからなのだった。

 (更新中)