#13

5日目のビリーズブートキャンプを終え、駅前のタリーズまで足を伸ばした。時刻は午後3時4分。少し大きめのBGMに紛れて、右隣に少し離れて座っている女の子たち二人が、とりとめもない話をしているのが聞こえる。英語の勉強をしているのだろうか、机の上には何冊かの本とノートが広がっている。けれど少し前から二人の会話は途切れることなく続き、「いつもはなんとなく見ているけど『デザイン』って街中に溢れているんだろうなあ」とか「私ってすぐに他人の話に感心するから、たぶん宗教とかにすぐハマっちゃうかもしれない」とか「私って赤紫色が好きなんだあ」とか、どうでもいいことをひたすら話している。私はそれを聞き流しながら、バックに入れていた書きかけの絵を途中から書き始めてみたり、もう飲み干したコーヒーカップの底に残っているカフェラテの泡を少しずつ口に流し込んでみたり、駅前のバス停に並んでいる人たちの様子を眺めたりして時間をつぶす。全身はぐったりと疲れて、眠気で少し頭が重い。今日の夕飯は冷たい蕎麦にしよう。昨日買ったネギは、たぶんまだ冷蔵庫に残っているはずだろう、と、そんなようなことを考えながら、ただなんてことのない時間が過ぎていく。

都会にいようが田舎にいようが、出歩く先として思い浮かぶのは、いつもチェーンの喫茶店か図書館かベンチのある公園だ。せっかく都会にいるんだから、なにかもっと「ここでしかできないような体験」をしてみたい、とも思うけれど、そもそもここ数日はあいにくの雨で室内にいることが多かった。そんな中、最近は、ビリーズブートキャンプで心の病を克服した経験があるらしい家主の影響で、空いた時間にビリーの動画を流して、ひたすら筋トレに励んでいる。おかげで寒さに身を縮ませる暇がない。

55分のトレーニングを終えると、ただでさえ汗っかきの私は、にわか雨にでも打たれたかのように全身がずぶ濡れになり、しばらくまともに歩けないほどズタボロになる。しかしまあ衣食住を賄われているのだから、これくらいの疲労を引き受けなければ釣り合いが取れない。おまけに健康的に日々を送れるのだから有り難い限りである。このペースで続けていれば、じきにスリムだった頃の自分に戻れるかもしれない。まずは「みてくれ」から自分に変化を起こしていこう。人間中身も大切だけれど、表面的な部分もそれはそれで大切だ。

 

第一印象が全て、というわけではないけれど、人と人の関わりにおいて、最初の「つかみ」はかなり重要なんだなあと思う。最初の感触で、その人が今までどんな風に他人と関わってきたのか、とか、最近の調子は良いのかとか、そうでないのかとか、さまざまな事柄が推測できる。近頃はそれに加えて、フェイスブックツイッターなどでプロフィールや過去の投稿などを目にすることもできるから、会う前からその人のだいたいの雰囲気を掴んだ気になれてしまう。書きながら不安になってきたけれど、私は大丈夫だろうか。他人に対しては冷徹な視線を向けているくせに、自分のこととなると途端に無防備になる。フェイスブックはもう何年も投稿していない。どうにかしないと、と思いながら、放置している。

話が逸れた。さてこんなことを思うのは、最近、知人の家で催されたイベントの手伝いのようなものを経験したからだった。集客力のある家主はイベントを開くと多くの人が集まってくる(イベントなど開かなくともこの場所はいろいろな人が訪れてくる)。その日も雨で道が悪かったというのに、十数名は初めて顔を合わせる人が家に訪れた。私は単なるスタッフなのでほとんど出る幕はなかったが、メールや電話で参加者の方とやりとりして、お茶や座布団を出すなど軽く応対のようなことをした。第一印象がどうのこうの、という話は、その際に感じたことだった。

私はメールのやりとりが得意ではない。相手の表情が見えない状況で文字だけで会話をするというのは、目隠ししながら相撲を取るようなものだ。と、一応書いてみたけれどいまいちいい喩えが思い付かない。とりあえず、相手の顔色を伺いながら会話の糸口を探っていくタイプの私には、文面だけのやりとりはヒントが少なすぎていちいち慎重になってしまう。一人でいるときの相手がどのような気分で過ごしているのか分からないから、どうしてもよそよそしくなるというか、慇懃無礼と思われても仕方がないくらいどこかぎこちなさのある言葉遣いになってしまう。自分でもそれがベストだとは思っていないけれど、毎回じっくりと時間を掛けて、ひとまずこれが最も無難なのではないかと思える文面を送るようにする。

 

しかし中には、そういう私の身構えをいきなり正面突破しようとする連絡が来る。ところどころに絵文字や顔文字を用いて、全体的にこってりとした印象を与える文面。ほとんど話したことがないはずなのになぜか馴れ馴れしい文章。それはそれで構わないのだけれど、「自分とは違う世界観で生きているんだな」と思うくらいには距離を感じる。逆に、自分と同じかそれ以上に丁重な連絡をくれる人には「そろそろお互い『いい大人ヅラした演技』をするのはやめませんか」と言わんばかりにふとした拍子で打ち解けることがあって、うれしくなる。「これが俺のスタイルだ!!」と、自己主張をどこでもかしこでも貫くのは、カッコ良さもあるが、押し付けがましさもある。良いように言えば青臭く、悪く言えば品がない。こんなブログを公開している私が言うのもなんだけど、何かを誰かに見せるときには、どこかに奥ゆかしさというか、控えめさみたいなものを自戒として持っていたい。

 

とはいえ慌てて付け加えねばならないが、自分と距離を感じる人が「悪い人」であるはずがない。ただ私と「他人との距離感の取り方」が違うだけで、顔を合わせればみんな基本的には「良い人」だ。「良い人」「悪い人」という区別もよく分からないが、悪くなってやろうと思って悪くなる人はいない。自分と合わない人に「合わない」と言って切り捨てるのは簡単だが「合わない人」と会ったときこそ今の自分自身のあり方を見つめ直すきっかけにもなったりする。と、慌てて軌道修正したので唐突感が否めないまとめになってしまったけれども、とりあえずいろいろな人に揉まれながら、なにかと学ぶことの多い日々を今は過ごしている。自分を壊してまた作り上げる。その繰り返しの中を生きるしかない。