#15

何かの雑誌に掲載されていた、哲学者の國分功一郎さんと千葉雅也さんの対談で「人間には『心の闇』が必要だ。今の世の中は、本来は闇に隠れているべきはずの心の内側に光が当てられすぎている」というような話が語られていたことがあった。「心の闇」という言葉はふつう良くない意味として使われる。けれど、そこでは若干違うニュアンスで話されていた。

どういうことか。詳しい内容を覚えてないので、ここで迂闊なことを書くわけにはいかないのだけれども、そこで言われていた「心の闇」とは、どうやら「何か具体的な行動を起こす前に心の中に湧き上がってくる、その行動の根拠になるような気持ち」、つまり「動機」のようなもののことについて言っているらしかった。

本来であれば、何かの行動を起こす前に「なぜそうしたいと思ったか」なんてことを自分で説明できなくてもいいし、する必要もない。私たちは、いつもいつも、何かを「やりたい」と思う気持ち(動機)がまず最初に心に巻き起こってから行動に移る、という順序を辿るわけではないからだ。知らぬ間にやっていたこと、やっているとなぜか心が落ち着くこと。「やりたい」と思ったから「やる」、という単純な構図で、自分の行動や今の状況を説明しきれない場合はたくさんある。(むしろ「動機」は実際に何かに取り掛かってから、後付けで語られることの方が多かったりする。)

なのに今の世の中では、たとえば企業の面接などで、なぜ自分がその選択をしたのかを、いわゆる「志望動機」というものを通じて、事前に理路整然と説明するよう求められたりする。そうでなくても、進学や就活やさまざまな他人と関わりの中で「これからあなたは何をやりたいのか」と尋ねられる場面はしばしばある。

自分が何をやりたいのかなんて分からなくて普通だ。考えれば考えるほど分からなくなって当然だ。自分の「ほんとう」の気持ちは外に出そうとすればするほど、どこまでも闇に隠れていく。けれども表の世界では、それを容赦無く「明らかにせよ」と迫られる。すると当たり障りのない言葉で無理矢理にでも説明するしかなくなり、いかに目の前の相手にとって通りの良い文句をそつなく話すことができるか、という不毛な営みに巻き込まれることになる。動機なんて分からなくてもいいし、説明できなくてもいい。人間の心なんて、そもそもよく分からないものだ。闇に光を当てることより、より豊かな闇を持とうとすること。長くなったけれど、冒頭の話を私はそういう意味として受け取った。

 

現代は、「とりあえず皆、これを信じておけば大丈夫」みたいなものがどんどん消えていって、良くも悪くもそれぞれが自分で自分の信じられる価値観を採用して生きていかなければならなくなった。既存の価値観を信じられない人は、既存の価値観に対抗する価値観を信じるようになるかもしれないし、それすら信じられない人は自分でオリジナルの価値観を作ろうとするかもしれない。いずれにせよ、大変なことだ。

信じられる何かを自分以外の誰かに求めているうちは、自分よりも輝かしく生きているように見える人たちの間を、いつまでもさまよい続けることになる。かといって、それを自分自身の内側に求めはじめると、「たしかな気持ちはどこにあるのか」という答えの出ない問いに絡め取られて、どこへも身動きが取れなくなる。どうやって生きていけばいいのか。その答えは人の数だけあって、自分の答えは自分で作っていくしかない。違うと思ったら壊してまた作り直す。その繰り返しだ。

そういえば、最近は「どうやって生きていけばいいのか」なんて大それた疑問に頭を掻き回されて、にっちもさっちも行かなくなるなんてことはあまり無くなった。きっと目の前に「やるべきこと」があるからだろう。掃除、洗濯、皿洗い、玄関の落ち葉を掃いたり、庭の枯れ草を抜いたり、メールを返信したり、知人から頼まれた用事を終わらせたり。やるべきことがあるというのは幸せなことだと思う。

自分が何をやりたいのかは、私にはまだ分からない。もしかしたらずっと分からないのかもしれない。ただ、どうやって生きていけばいいか分からなくても、今こうして生きているというのはきっとたしかなことだから、生きながらでも考えていけばいいのではないか。と、そんな呑気なことを考えられるくらいには、それなりに生きているなと思える日々を送っている。