福岡にて

ゲストハウスのラウンジにて

ジョイフルで無事に夜を明かした昨日の朝、高速バスに乗って鹿児島中央駅から博多駅へと移動した。車中ではほとんどの時間を寝て過ごした。博多駅に到着したのは11時過ぎ頃。駅構内で、待ち合わせていた福岡在住の知人Tさんと再会し、それから大変有り難いことにランチをご馳走になり、さらにTさんのお心遣いで手配していただいたゲストハウスへ案内してもらい、極め付けに夜はTさんと旧知の仲である方と共に名物の焼き鳥とお酒をご馳走になり…と、こうして書き出してみると私は本当にどれだけ他人様のお世話になって生きているのだろうと思う。後述する鹿児島におけるあの恵まれ過ぎた日々にしても完全にそうだが、最近はなんだか今の私には身に余る恩恵を授かってばかりで、相応の努力や苦労を自分に強いなければ釣り合いが取れないのではないかと、逆に不安になってしまう。なにより幸せになると文章を書く気が起こらなくなる。この旅先での日々について、日記ではファミレスで宿泊したり一日何も食べなかったりして無理やり自分を苦しめている様子を中心に書いているけれど、それは、そうでもしないとそれ以外の日々が余りにも度を超して恵まれ過ぎているために、文章として書き起こしてもただの自慢話にしかならないような気がしたからだ。「私は幸せだ」としか書いてない文章なんて誰が読みたいだろうか。少なくとも私は書きたいとすら思わない。幸せだったときがあるなら、それは、その時々に有り難くその幸せを噛み締めてさえいれば十分で、わざわざ第三者に見せびらかす必要なんて全くないと思う。もっと孤独になろう。孤独にならなければ表現はできない。本当の幸せは、きっと一人になったときに感じる寂しさを誤魔化すようなものではなく、むしろ一人になったときの自分自身をより確かに支えてくれるようなものだと思う。

と。そんなことを書いているが、果たしてこの文章の中にどの程度自分の本心と呼べるものが含まれているのか自分でも分からなくなってきた。手癖で文字を並べているだけでただいつもの思考回路をなぞっているだけなのではないかと自分で自分に疑心暗鬼になる。時刻は11時33分。そろそろ昼飯の時間だ。

櫛田神社の休憩所にて

ぜんぜん話は変わるけど、昨夜泊まったゲストハウスの受付の女性が非常に感じのよい方だったので思わず胸がキュンとしたという話を忘れない内にしっかりとここに書き止めておきたい。自分の気持ちに嘘を付かないこと。感じた気持ちをなかったことにしないこと。今の自分にできることはそのくらいだ。仕事だからとかではなく本当に純粋に喜んでくれているのではないかと見紛うような大変キュートな笑顔で応対して下さいました。素敵な笑顔でした。ありがとうございました。

アクロス福岡にて

あちこちをふらふら歩いていたら、無料でフカフカしたソファに腰掛けられる謎のスペースに辿り着いた。公園のベンチは風が冷たかったので助かった。

さっき思ったことを書く。さきほど街を歩いているときに、ふと、自分は誰かの役に立ちたいと思っているのだな、と思った。今の自分は既に満たされている。十分過ぎるほど満たされている。そしてこれ以上自分の内側を見つめ続けていても、おそらく答えは見つからない。今の自分に必要なことは、誰かと会って、話して、目の前で生きている誰かの心に自分の意識を向けることだ。日記を書いているときの私は、自分のことばかり考えて他者が見えなくなっている。私が求めているものは、きっと自分と他者の間にある。私にとって他者とは誰か。どこへ行けば他者に会えるのか。そんなことを考えながら空を仰ぎ、外の世界に目をやった。

ちょうど今誰かが財布を落として、それを私が拾ってやれたら。きっとそれだけで私は今日という日を気分良く終わらすことができるのだろう。けれでも、そんなに都合よく財布を落としてくれる人なんて見当たらない。都市の姿はどこであっても変わらない。誰もが足早に歩いては去っていく。それぞれがそれぞれにとって特別な今を生きているのだとしても、私の目には、群衆が群衆としてただ同じ空間に居合わせているだけにしか見えなかった。私が意識を向けるべき他者の影は、街のどこにも見つからなかった。

 (更新中)