福岡にて(3)

天神駅前漫画喫茶にて

この音はなんだろう。すぐそばで、聞き覚えのある、不潔な感じのする、破裂するような激しい音が、聞こえなくなったかと思うとまたすぐに意識の壁を突き破って断続的に聞こえてくる。それは人間の音だった。人間の喉を通り過ぎていくときの何かだった。粘り気を含んだそれは、初めに生まれた勢いを一度も失速させることなく外へと吐き出されていく。目をつむっても聞き苦しさは無くならない。むしろ意識が鮮明になるにつれ、音の正体に気付きはじめて不快さは増していった。その音がいつまでも無遠慮に繰り返されるのに苛立って、私はいつの間にか音の聞こえてくる方へ敵意を向けていた。

目を覚ますと、ディスプレイの明るすぎる白い光が真っ先に目に飛び込んできて、私は自分が今漫画喫茶にいるのだということを思い出した。音の正体は隣りのブースに滞在している人が放つ咳だった。どこかの男が痰の絡んだザラついた咳を何の制御もなく外へ吐き出していくのを私は聞いていたのだった。イヤホンをはめてこの世界の全てに対して栓をする。ブログを開き、この苛立ちを原動力にして今日の分の日記を書きはじめることにした。目が覚めたのは午前3時過ぎ、しかしここまで書き終えるのに思いの外時間が掛かって、今はもう5時8分だ。スマホを握った手の感触から、私の手や顔の皮膚の表面に軽く脂が浮いているのが分かった。近くに銭湯はあるだろうか。疲れてはいないが、快調ではない。空気が臭い。この場所が、息を吸うだけで汚れていくような醜悪な気配に満たされた環境であることは疑いようがなかった。人間が眠ってはいけない場所で、眠ってしまったような気がした。

時刻は7時半。滞在が8時間を超過する前にそろそろ出発しようと思った。しかし身体は一度横になった心地良さを忘れることができず、溺れるようにまた眠りの中へ引きずり込まれていく。結局、目を覚ましたのは午前9時前。痰の絡んだ咳の音はまだすぐそばで変わらずに聞こえ続けていて、時折吐血するかのように激しく咽せたかと思うと、「ピェッ」という口に溜まった粘ついた液体を勢いよく外へと吐き出す音も聞こえた。汚らわしかった。この男はきっと真っ当に生きていくのに必要な最低限の客観性を気にする心持ちさえどこかに捨ててきたのだろう。不衛生極まりないこの場所でコンタクトレンズをはめる気になれず、ぼやけた視界の中からなんとか便所のあり方を指し示す標識を探し出し、矢印の導く方へと早足で向かった。

便所の個室にはなぜか薄汚れたような衣服が乱雑に掛けられていて、蛇口の周りは水浸しになっていた。嫌悪感を全身で感じながら、コンタクトレンズを指に乗せ、まぶたを開いて眼球に乗せる。すると個室の中からカサカサカサという微かな音が途切れなく小刻みに聞こえてくるのを感じて、すぐに私は自分の耳にこの世で最も聞きたくない音が聞こえてきているのに気が付いた。一刻も早くこの場所から立ち去らなければならない。人間の下卑た部分を煎じ詰めたような場所だと思った。料金は2040円。捨てるように金を機械に滑らせて出口ゲートを後にした。

天神駅タリーズにて

早朝のタリーズには人がいなかった。自分の髪やネックウォーマーが、さっきまでいた漫画喫茶で燻されてタバコの臭いがいつまでも付きまとってくる。呪いを掛けられたようだ。

(更新中)