新横浜にて

12時44分。新横浜駅から歩いてすぐの場所にあるデパートの4階。そのフロアのベンチに腰を下ろして、今日の日記を書いている。

日記を書くのは久しぶりだ。いや正確には、あれからもずっとことあるごとに書いてきてはいるのだが、どうしても気持ちにストップが掛かってしまって公開ができなかった。腹が減ったとか、頭が痛いとか、今日は良い一日だったとか、日記を公開しなくなってからも何かを思わない日は一日もなかった。ただ、文章を書くというのはそんな風に、思ったことをそのまま吐き出せばそれでいいというような単純な行為ではない。断片的に思い付くさまざまなフレーズを論理的にひとつの文章にまとめ上げるという別の作業が必要で、それを行うには、のびのびと頭を働かせる余力がないとできなかった。

日記を公開する気にならなかったのは、書いた文章の内容を他人に読まれたくなかったというより、文章として成立していないものをこの世に存在させるわけにはいかないという自分なりの美意識のようなものが邪魔をしていたからだったのではないか、と今になって思う。やるからには恥ずかしくないものでありたい。そういう気持ちが自分の中にもあることを、最近、少しずつ自覚するようになってきた。今まで私は自分自身のことを引っ込み思案だと思い、これからもそうあり続けるだろうことに何の疑問を感じなかったけれど、それは自分なりの美意識のようなものがあまりにも強く自分自身を縛っていたからなのかもしれなかった。そんなようなことを考えながら、今日もぼんやりとなんでもない時間を過ごしている。こういう時間が最近の私にはもっと必要だった。

私の目の前には、しまむらがある。背中側にはcandoがある。冷静に考えたらここはデパートの廊下で、こんなにも長く腰を落ち着かせているような場所ではないはずだった。しかし、イヤホンから流れてくる音楽のおかげで、私は目の前の現実にはまったく目をやることなく文章の中に没頭することができている。ここがどこであろうと、私には何も関係がない。それに今の私が冷静に考えられていないかと言えば、そうではないような気もしている。私の目の前を通り過ぎていく人の誰よりも、私の方がよほど冷静にこの場所に存在しているのではないかという気がする。この場所から私は文字通り冷たく静かにこの世界の有り様を見つめている。こんな風に、この世界をずっと遠くから眺めているように過ごしている時間が、私は好きだった。

思いを誠実に言葉にしたい。でも、そうしようとすればするほど、目の前の現実からはどんどん遠ざかっていってしまう。例えば、この日記を更新していなかった間にどんな日々を過ごしていたのか、とか、最近はどんな風に生きているのか、とか、そういった類いのことを、主に知人や友人に自分の近況を知らせるために書こうという気持ちが、私にもないわけではなかった。けれどやはりそんなことは、文章を書いているうちにどうでもよくなっていってしまう。自由にものを思う私自身をすくい上げることができるのは、こうやって穏やかな音楽に浸っているときの自分だけで、それ以外のものは全て風景の奥に遠ざかっていずれは消えてしまうだけのものに過ぎなかった。しなければならないことも、買いたいと思っていたものも、会いたいと思っていた人も、今の私にとってはどうでもいい。私にとって他人とは、きっとそれくらいの存在感しかないものだったのだ。そんなことを思うと、悲しいわけではないはずなのに、なぜか涙が滲んでくる。

少し寂しいくらいがちょうどいい。このくらいの寂しさが、この先も変わらず私の胸にあり続けていてほしいと思う。