銀座にて

17時47分。とある会議への出席を終え、コンビニのイートインコーナーで一息ついている。

集団が苦手だ。大人たちの集団がとくに。しかし、苦手だからといって避け続けていたら、いつまで経っても自分自身の人間としての幅が拡がらないではないか。そんなことを心のどこかで思っていたから、きっと今、私はここにいるのだと思う。

ここのところ体調不良で、朝から気分がまったく優れなかったのだが、義務感やら使命感やら色々なよくわからない感情を胸の中に渦巻かせながら結局私は電車に乗って、いつの間にか、月一でとある会議が行われるこの場所へ向かっていた。とは言っても、自分でも何の会議なのかすらよくわかっていないのだが、大人の世界ではおそらくこういうものには出席しておいた方がよいとされているのだろう。私はこの会の新参者なのだから、とくに何も話さなくたっていいはずだ。会場にはすでに十名ほどの人たちがいた。私も席に着く。

いつものように状況を俯瞰しながら、この場にいる人たちがどんな人で、それぞれが互いにどのような関係にあるのかを注意深く探っていく。そう、私のポジションはいつだってそうなのだ。一歩引いた立場から周囲の様子を見る。相手の出方を窺って、自分が飛び出すのに最良のタイミングを待つ。それが私の他人との距離感、これまでの日々の中で身に染み付いてきたスタイルだった。

何も間違ったことをしてないのだから、ドンと構えていればいい。心の中でそんな風に言い聞かせながら、私はひたすら皆の話を聞いていた。会議で話されている内容なんて、もはやどうだってよかった。この緊張をどうやって鎮めるか。胸の心拍をどう落ち着かせるか。いつだって私は私自身のことにしか興味がない。この緊張を味わうためにこそ、私はここへ来ているのだ。

 

たった数年前には、昼間から布団の中に潜り込んで延々と低いうめき声を上げ続けているしかなかった男が、いまや大人たちに混じって、銀座のとあるビルの一室で行われる会議に出席するまでになった。詳細な説明はまたの機会に譲るが、私は今、とある会の一員として、銀座に月に数回ほど、かねてより親交のある方とともに小さなカフェイベントを催している。開催初日を終えた日の帰り道、彼は私に「なんだか数奇な人生だよね」と、ぽつりと語った。本当にその通りだと思った。まさかこんなことになるなんて、たった一ヶ月前には思いもしなかった。彼の行動力がなければ今回の企画が始まらなかったのは言うまでもない。

これからの私の課題は、彼が打ち上げたこの企画を、自分自身がこれまで歩んできた人生にどのように引きつけて捉えるかということだ。これは、私自身にとってどのような必然的な意味があるのか。他者にとってどのような意味を持つのか。自分と他者、その間を繋ぐものとしてこの場所がどのような空間であるのが相応しいのか考えている。

人間としての幅を拡げること。今の私に課せられた課題は、簡単に言えばこの一言に集約される。もっと自分を試したい。そのためにはどうすればいいか。するべきことは分かっている、現実に体当たりをすることだ。それはつまり、他人の前で恥をかくことであり、自分が信じる価値を思い抜くことであり、失敗を覚悟して、行動した結果を自分で引き受けることだ。カフェイベントという体裁を取ってはいるが、当初、カフェであるということ自体にそれほどのこだわりがあるわけではなかった。自分が現実にぶつかっていく手応えを感じられるものであれば、なんでも良かったのだ。目の前の他者に誠実に向き合うこと。それしかない。

 

と、勢い余って勇ましいことを書いてはいるが、すでに書いた通り私の本領は周囲の状況を俯瞰しているときにこそ発揮されるものであるとも思っている。なんでもかんでも突っ込めばいい、というのでは私らしさが失われる。私である必要がなくなる。私の勝負ではなくなる。あくまでも私自身のやり方で現実と対峙したい。それがどのようなやり方になるのかは、きっとこれから現実の中で見い出していくしかないことなのだろう。

ひとまず今日は、やるべきことはやったと思う。具体的に何かを成し遂げたわけではないけれど、よくわからない達成感がある。このことの意味が今はわからなくても、この感覚さえ今の私の胸にあれば、きっと未来の私が何らかの意味をこの出来事に見出してくれるだろう。

大人と会うと緊張する。アウェイは特に消耗が激しい。この心理的負担が負荷になって自分がまたもう一回り大きくなってくれることを信じたい。