喫茶店にて

手紙を書くのが苦手すぎる。ラインもチャットもメールも電話も苦手だが、手書きで手紙を書くのが一番苦手かもしれない。苦手すぎて頭が千切れそうになる。とある方から送られてきた手紙の返事を書きに今日は喫茶店に来ていたのだが、数分前に何を書いたらいいか完全に分からなくなって何もかもが嫌になり、思わず頭を掻き毟るということを、久しぶりにやった。難しすぎた。顔の見えない相手に対してどれくらいの丁寧さで書いたら丁度良くなるのかがいつも分からない。たかだか手紙を書くためだけにどうして俺はこんなに苦しまなければならないのだろう。くそだ。もう本当に俺は手紙を書くのに向いていない。というか相手の顔色を伺いながら行うことのできないあらゆるコミュニケーションが苦手だ。だいたい、これだけ苦労して手紙を書いているけれど、手紙で伝えられる俺の気持ちなんて、対面で視線を交わしたときの俺の瞳の柔らかさとか瞼の力の入ってなさとか肩の力の入り加減とかそういうのに比べたらもうほんの少しの情報量でしかない。手紙で伝えられることなんて要するに「あなたのことを肯定的に思っていますよ」くらいのことでしかないのだから、そんな基礎的なことを言うためだけに、どうして時候の挨拶とかそういう改まった表現を踏まえながら文章を書かなければならないのか意味が分からない。私にとって文章というのはこういう風にぶつぶつとモノローグを書くときに使いたくなるツールなのであって、他人とコミュニケーションをとるためのものではないのである。実際、文章というもの自体が誰かと対話、ダイアローグをするのに向いていないものなのではないかと思う。いや自分の意見を率直に言い合うような対話ならいい。挨拶や贈り物なんかの、主にお互いの親密さを確認するために行われる、さりげない儀礼的なやり取り。そういう毛づくろい的なコミュニケーションのために文章を書くのがとにかく苦手だ。苦手、というのは要するに、目の前に相手がいないと、自分と相手との間にどれくらい親密な関係性が築けているか判断できないから、どうしても過剰に改まってしまって気を遣いすぎて自滅するということだ。でも、馴れ馴れしくなるよりはずっとマシなんじゃないかと思うからどうしても敬語になるんだよなああああ。いやいや、でも、そういうのもういいんじゃないのかっていうことも思う。そういうのいいからもっと親しみを込めてフランクにやっていければいいんじゃないですかって自分でも思います。でもほらやっぱり文章でそういうことをするのって後で冷静になって読んだときに冷めるじゃないですか。書いているときはまだいいけど、後から読むと自分が取っている他者への態度の馴れ馴れしさに引くじゃないですか。これはもう性分なんですよね。だからツイッターとかフェイスブックとかも苦手だし、過剰に改まらないと投稿ができない。でも本当はもっと気楽に他人とコミュニケーションを取っていきたいという気持ちがあります。というか、生身の私自身は意外とそういう人間ですよ。むしろ礼儀を知らないで怒られるような、だらしのない人間ですよ。ただ言語だけの私になると、それがまったく逆になる。神経質な自分ばっかり出てくるようになる。どうしてだろう。自分でも分からない。不思議だなあ。

 

5時を過ぎた。この喫茶店に入ったのは12時過ぎ頃だったから、かれこれ5時間くらいここにいることになってしまう。ああ。たかだか知人から来た手紙の返事を書くだけなのに。しかも結局一行も書けずに一日が終わった。自分の愚かさに気が狂いそうになっています。どうしたんだおれ。集中力のなさがすごいぞ。こんなもんだったかおれ。いやあでもこんなもんだったんだよなあおれって。何でもそうだけど、やらなければいけない!!って力んでしまうとすぐにこんな感じになってしまうのだよなあ。ああああ。やめたい。手紙を書くのをやめたい。ここに愚痴を書かなかったら喫茶店で発狂しているところだった。はあ。