銀座にて

午後2時16分。くもり。

銀座のドトールにいる。3時過ぎから緊張を強いられる予定が一件入っているということもあって、胸がそわそわして気が気でない。ので、久しぶりに文章を書きたい気持ちになって、ブログを開いた。こういうときのためにこのブログはある。こういうときのためだけにあると言っても過言ではない。黙っていると、色々な思いや考えがどこにも吐き出されることなく自分の中でだけ延々と渦巻いて平静でいられなくなってしまう。だから、そんなときにこそ日記を書く。というか、そんなときでないと日記なんて面倒くさくて書いていられない。誰よりもまず私自身にとって、文章を書くという行為が必要なのである。文章には前後がある。直線的な秩序がある。書くことで、自分自身の内側で渦巻いている言葉の洪水に一筋の秩序が与えられる。文章という形式に落とし込むことで外部化されて、初めて客観的に自分の心を透かし見ることができる。自分の中にある、なんとなくそわそわして落ち着かないような身体の感じ。それに一番適しているような言葉を探し出して当てはめる。その行為にのみ集中する。すると意識がその一点に集中して、だんだん他のことが気にならなくなっていく。周りで起きているさまざまな刺激に中途半端に反応しては動じていた身体の状態から抜け出して、自分で選択した一つの対象にひたすら意識を注がせるだけの状態に変化する。そうすることで、次第に自分の意識を自分の手元に取り戻していく。

…とかっていうようなことを書いているうちに胸の動悸がだんだん穏やかになってきた。きっと内容うんぬんではないのだ。何かを書くという行為それ自体によって私は癒されているのかもしれない。土をいじって泥団子を作る。黙々と草むしりをする。冷たい流水に手を浸す。空に向かって大きく伸びをする。言葉を思い付くままにただひたすら吐き出し書き続けることの中には、それらに匹敵するような心地良さがある。最低限の日本語文法に従ってさえいれば、どのような言葉の羅列であっても構わない。とにかく書くこと。文字を打つこと。スマホの画面に浮かんだ文字を左右の親指を駆使して叩く。もしかしたら、こうして親指を動かしていることがただ楽しいのかもしれない。

動悸がしたのはコーヒーを飲んだからなのか、それとも緊張する予定があと少しであるからなのか。もしかしたらこの喫茶店の雰囲気のせいということもあるかもしれない。ほぼ全ての席が客で埋まっている店内は、決して居心地が良い雰囲気とは言えない。自分の中で言葉の洪水が起きているときは、目の前の景色や様子の良し悪しをパッと見で判断できなくなる。むしろ、自分の心のさざ波立った状態を外の世界に投影するかのように、わざわざ居心地の良くない空間に吸い寄せられていくこともある。

予定の時間まであと五分。こうしてはいられない。席を立って、目的の場所まで向かう。