新発田にて

19時29分。実家。

とくに書きたいことも、書きたいという気持ちすらもあったわけではなかったのだが、昨日の日記で「この日記も今年はできるだけ書いていきたい」というようなことを書いてしまったので、その手前、いきなり何も書かなくなるのはいかがなものかと思い、とりあえず書きはじめてみることにする。書くことはまだ決まっていない。とりあえず書きはじめてみて、それから何か書きたいことが湧いてくればそれを書いたらいいし、湧いてこなければ、それはそれでその枯渇し切った自分自身の内面世界を書いていけたらいいのかなと思う。

 

さて。ふと思ったのだが、人は、どうして書くのだろうか。書きたいことがあるから、書くのだろうか。書きたいという気持ちがあるから、書くのだろうか。

・・・人は、だなんて大きく出てしまったけれど、べつに、私は、でもよかった。というか、私には私のことしかわからないのだから、私は、と、書くべきだった。

というわけで、改めて、私は、どうして書くのか。書きたいことがあるから書くのか。書きたいという気持ちがあるから書くのか。

 

質的にも量的にも非常にお粗末ではあるが、まがりなりにも4年近く日記を書いてきている。そうして思うのは、「書きたいことがあるから、書く」もしくは「書きたい、という気持ちが湧いてきたから、書く」というような順序で気持ちが動いて文章を書きはじめる、ということは、今までそれほど多くなかった、ということだ。

体感としては、今日のように、「とりあえず書きはじめてみる、すると意外にも筆が進む。ふと我に帰ると、結果として文章(のようなもの)ができている」という感じ、と言ったらいいだろうか。まあ、ここはあくまでも「日記」ということで、ただ私的なことを漫然と書き連ねているだけの場所(それに甘んじていられる場所)なので、このブログに投稿されているものが他人様の前にお出ししても恥ずかしくないくらいの一端の「文章」と呼べるものかというと、間違いなくそうではない。誰かに読んでもらうための文章、誰かに読まれることが前提の文章。そういったものを書くためには、おそらく今よりもっとシビアな視点が必要になってくる。もちろん心構えも変わるだろう。私自身、もし今書いているこの文章を他人前で発表するということになれば、もっと気持ちを引き締めて文章に臨む。

 

しかし、こうして日記を書くことに関しては、それがない。ある必要がない。なぜないのかといえば、日記を書くことに、意味も、意義も、目的も、メリットもないからだ。日記を書くことによって達成されるものは何もない。書いてみて、楽しかったら、続ける。楽しくなかったら、止める。それだけだ。

いや、正確には、この日記を書いている最中に、いわゆる「楽しい」という気持ちさえ起こっていないような気もする。書く、ということに集中している間、私は、日常生活を生きているときの私自身とは少し違った状態になっている。例えば、今がそうだ。今の、この感じ。

この感じ、がどういうものなのかをダイレクトに言葉にするのは非常に難しい。ニュアンスで汲み取っていただくしかない。文章を書き続けているうちに、だんだん頭の中が重くなって、こめかみの奥がジンジンと熱くなってくる、この感じ。もしかすると私はこれを味わいたくて日記を書いているのかもしれない、とさえ思うが、ともかく、無目的に文章を書き続けることの中からしか味わえない感覚があるのは、たしかだ。

 

 

 

私はべつに、ここで何かを解明しようと思っているわけでも、読んだ人に楽しんでもらおうと思っているわけでもない。だから、今日の日記は唐突にここで終わる。

しかしまあ、こういう風にわざわざ言い訳めいたことを書いてしまうあたり、やっぱり私は自分で打ち立てた問いを自分で解決する論文のような文章、もしくは読んだ人に楽しんでもらえるエッセイのような文章を、自分でも書くことができたらいいのになあ、と、心のどこかで思っているのだろう。しかし、その辺のことも今日はまあもういいとする。

自分の思考を自由に走らせ、疲れたら立ち止まり、飽きたら出ていく。そういう、言わば公園か原っぱのような場所で遊ぶように、この日記を書いてきた。今、このままじゃだめなのだろうな、という思いと、このままでもいいじゃないか、という思いの二つで揺れている。意義があると思ってやっていたわけではないが、公園で羽を伸ばすことは、私の心を解き放つ上で結果的にとても大きな意義があった。しかし、いや、だからこそ、公園で遊ぶのはもうそろそろいいだろう、と、自分で自分に思ってもいる。