三月二十二日

f:id:tmp159:20190322155124j:image

15:07 ドトール菊名駅前店

初夏のよう、とまでは言わないにしても、春らしいと言うにはあまりにも暑い一日になった。セーターの袖をまくり、額に滲む汗を手で拭う。駅前は今日も人通りが多かった。

 

ついに今日、転出届を地元の市役所に郵送で送った。後日、受理したとの通知が届けば、こっちの市役所に転入届を出して、保険とか年金とかの手続きを行う流れになる。住所があれば、仕事に就ける。仕事に就けば、金が稼げる。金を稼げば、さて、どうなるのだろう。分からない。しかしもうなんだっていいのだ。やることがないからする、というただそれだけの気持ちだけが自分を動かすこともある。いや、実際、動いたという実感すら乏しい。それがどうして今日だったのか。理由はない。だが理由なんていつもどこにもないのだ(強いて言えば、「とりあえず書類だけは準備しておこう」と思って一週間ほど前にコンビニで免許証のコピーを取ったのだが、たぶん自分がコピー機の中に免許証を忘れたらしいということに、昨日の深夜に気が付いて、駅前のコンビニを五、六軒冷や汗を流しながら巡って交番にも行って、駅前のファミマでついに見つけた、、、その勢いそのままに、そのすぐ近くの郵便局へ入ったのだった)。

郵便局に入ると、カウンター越しに女性の郵便局員さんと目が合った。「この封筒に合う切手を買いたいのですが」と尋ねると、私が手に持っていた封筒を見て、「封筒はこのままお預かりして、こちらで郵送してしまってよろしいですか」と訊き返される。私が「あ、はい」と答えると「かしこまりました」と告げてレジを打ち、受付に設置されていた画面に「120円」と表示が映った。あ、そうか、大型の茶封筒はやっぱり切手の値段が違ったんだと思って財布から百円玉一枚と十円玉二枚を取り出して受付のテーブルに置く。するとすぐに、10センチほど離れた場所にブルーの小銭入れが差し出されていたことに気が付いて、そこにお金を入れ直す。「ありがとうございました」と私。「ありがとうございました」と女性。これで今日の仕事は終わりだ。レジの上に雑然と置かれたあの茶封筒は、これから私の故郷へ向かう。

こうして、ここ数週間ほど、いや、ここ二年ほど私の頭の片隅でくすぶり続けていた課題への取り組みが、今日を以っていよいよ本格的に口火を切ることとなった。呆れるほど実感がない。一連の行為に意味がないとは思わないが、人間の血の通わない、単なる事実の確認だけがそこにあるような気がした。それが社会。それが社会の中で生きるということなのか。

社会とは一体なんだろう。市役所、郵便局、警察署、飲食店街やコンビニ、目の前に見える、駅出入り口を行き来する人たち。私がいた、という事実さえ、彼らは決して知ることがない。彼らのことを私が何も知らないように。

 

 

 

 

ということで、これからの動きをおさらいしておく。

⑴ 郵送で転出届を地元市役所に提出する

⑵ 地元市役所から返答が届く

⑶ こちらの市役所に転入届を提出する

⑷ その他の書類?(年金?印鑑登録?)もこちらの市役所で手続きする

⑸ 免許証?とか郵便局?とか各種重要機関?に登録されている住所変更を行う

以上だ。とりあえず、数日後には新発田市役所から、なんらかの返答が届くはずだ。それを元にまたひとつ行動を起こす。

ひとつひとつ、だ。ひとつひとつ。「やらなければならないこと」は、数珠繋ぎのように次から次へと迫ってくる。でも、今ここで焦っていきなり自分を変えようとかなんとかって思う必要はない。案ずるより産むが易し。例えるならば、これは銭湯で熱い湯に自分の身体を馴染ませていくようなものに近い。勢いが要るのは、これまで浸かっていた湯から出るときと、新しい湯へ入るときだけ。入ってからはただ一秒一秒を噛み締めるのみだ。

 

 

 

 

ふと、二十歳くらいの頃のことを思い出す。

ある日、私はネットで見つけた社会人の卓球サークルに連絡を取って、見学の申し込みのメールを送ったことがあった。

大学に入ったはいいものの、友達がいない。大学構内で声を掛けられる部活やサークルの雰囲気に馴染める気がしなかったし、授業等で頻繁に顔を合わせる同級生たちとも仲良くなれそうになかった。

たとえば、くだらない例だけれど、彼らは、いわゆる「新入生歓迎会」のことを当たり前のように「新歓」と略して呼んだ。二回生以降が使うならまだわかる。だが、新入生がなぜ使うのか。昨日まで知らなかったはずの言葉をどうして口にできるのか。私は彼らの使う言葉の端々に「とりあえず与えられた環境に早く順応したい」というだけの浅はかな魂胆を透かし見て、勝手に気分が悪くなった。部員募集のチラシが飛び交う構内をひとりで歩いて、何もなければすぐにアパートへ帰った。近くのスーパーで肉ともやしを買って炒めて食べた。コタツに入ってテレビを見た。そして夜になり、ベッドに寝転び天井を眺めた。孤独だった。

結局、そのような日々はそれから何年も続くことになったわけだけど、入学当初はともかくひとりになってしまうのが怖くて、ある日、「どうにかして人と接しなければ」と焦って、ネットで見つけた社会人の卓球サークルに勇気を出して連絡を取ったのだった。

ある日の夕方、最寄り駅から二十分くらい進んだところで電車を降り、見知らぬ住宅街を抜けて、知らない小学校の体育館へ向かっていった。仕事を終えた社会人が十数名ほど集まって、当たり障りのない話をしながら卓球に汗を流している。私は代表と思しき男性に挨拶をして、自分がメールで見学を申し込んだ者だと告げた。それから練習に加わる。愛想笑いをしながら、適当な会話をするなどした。終わってみれば、呆気ない数時間だった。ほとんど印象に残っていない。

解散するときに、女性参加者の一人が「旅行に行ってきたので」とかって言いながらサークルのメンバー全員に手土産のクッキーを渡していた姿だけはよく覚えている。それは、人付き合いということについてそれまで私が知っていたものとは明らかに異質な光景だった。これが、社会か、と思った。

うまくやれたかどうかは、わからない。しかし、ともかくやるだけのことはやった。ひとりで決めて、ひとりで終えた。ともかくそのことだけが嬉しかった。

体育館から駅までの帰り道、辺りはもう真っ暗になっていて、道端の自動販売機だけが場違いにまぶしく光っていた。そばによると、隣には錆びてぼろぼろになったベンチが取り残されたように置かれていた。私は自動販売機でレモンスカッシュかなんだったかを買って、ベンチに座ってひとりで飲んだ。そのときの、なんともいえない、よい気持ち。それを久しぶりに思い出した。

 

今がそんなような気持ちなのかといえば、そうでもないけれど、ともかく、今まで小さなことをひとつずつ乗り越えてきた自分自身というものに誇りを持ちたいと思う。ちなみに、そのサークルには二度と足を運ぶことはなかった。