四月四日

13:31 カフェ(菊名駅前)

よく晴れている。ここ数日は驚くほど寒かったので、日差しの暖かさが身に沁みてありがたい。家にいても良かったのだが、陽光に誘われて街へ出る。

何をするわけでもなく外に出たこういう日は、数十分もするとどこにも行き場がなくなって、途中で必ずどこかの喫茶店に立ち寄ることになる。数年間の都市生活によって、地方出身者の私にも知らぬ間にそういう習慣が身に付くこととなった。地元だったら、こうはいくまい。いや、別にそうでもないのか。新発田にいたら、図書館か生涯学習センターなどの無料でインターネットが使える公共施設か、TSUTAYAかMcDonaldなどの格安でインターネットが使えるカフェに行く。菊名にいたら、図書館かMcDonaldかドトールタリーズに行く、ってやっぱり同じだった。WiFiがあればどこでもいいのだろうか、俺は。

こうやって自分の行動を書き出して改めて振り返ってみると、なんだかほんとうに「貧すれば鈍する」という言葉を地で行っているような気がして、うんざりする。かといって豊かになりたいという気持ちもあまりない。それは必ずしも経済的な意味だけではなく、野望も希望も欲望も、あらゆる意味で自分を駆り立てるほどの望みがないのだ。行動の一つ一つに重みがない。重みを置くべきものがない。

自分から進んで何も選んでいないし、何も選んでこなかった。しかし、何も選ばなかった、ということさえ客観的に見たら、「何も選ばなかった」ということを選んだ、というように見られるのだろうか。だとしたら不服だ。でも、それも仕方ない。何かを選ぶにせよ、何も選ばないにせよ、結局は今いるこの地点から始めるしかない。

 

いつもなら反対側の駅出口前にあるカフェ(ドトール)に行くのだが、今日は初めてもう一方の側にあるカフェ(名前はまだ知らない)に来ている。微妙な違いだけど、ドトールよりも隣の座席との距離があって、若干過ごしやすい気がする。アイスコーヒーもこちらの方が美味しい。来られてよかったと思う。まあ、どうでもいいことだけど。でも、こういうどうでもいいことをこそ書いていこう。

ていうか、そういうところだったじゃないのか、そもそもこの日記って。立派に見えるところばかりが人間じゃない。立派に見せようとするだけが生き方じゃない。自分の褒められた部分だけを表に出して、アピール、とかなんとかって、そういうやり方は私に合わない。

おしゃべりな人間ほど、つまらない。くだらない会話ほど、長く続く。そういうものだと思う。この日記も、書けば書くほど野暮なものになっていく気がするし、実際そういう面はあると思う。でも、それでも、この日記の中でくらいは自分で自分を自由にしてやりたい。なんというか、文章の中ではどこまでも神経質になれるからこそ、文章それ自体の存在意義、みたいなものについてだけは、いい加減になってやらなければならないような気がする。文章を書く動機がどれほど幼稚で未熟なものだったとしても、文章を書くことそのものを否定してはならないのではないか。

あらゆる動機は、不純なものだ。不純なものを、いかに隠して綺麗に見せるか。私だけじゃない、私たちがしていることは、すべて、そういうことなのではないかと思う。美しくあることを目指すことはできても、美しいものそれ自体になることはできない。不純なもの、邪魔なもの、意味がないもの…美しくないものをどこまでも排除しようとしたら、最後には何も存在できなくなる。