四月二十一日

22:16 自室

パソコンで日記を書くのに慣れない。いつもはiPhoneの小さな画面に映るそれよりさらに小さなキーボードの文字盤を、左手と右手の親指をカサカサと動かしながら打ち込んでいる。もちろん姿勢は良くない。前かがみで、背筋は猫背。目と画面の距離も近い。

良くない姿勢でいると、心なしか気分も暗くなってくる。気分が暗くなっているから姿勢が悪くなるのかもしれないけれど、そんなことはもうどちらでもいい。心身一如という考え方もある。つい「心」にばかり偏ってしまいがちだからこそ、「身」にあえて目を向ける。抽象的なことを考えるのも大切だけど、ていうか、私の場合は放っておくと勝手に抽象的なことばかり考えて未来への不安とか過去の後悔とか生きる意味とかを延々と考えて止まらなくなってしまうからこそ、考えてばかりいる自分自身の在り方それ自体を物理的な面から疑ってみるという視点も、同じくらい大切にしてやらなければならない気がする。姿勢が悪くなっていないか、とか、単に腹が減っているだけなんじゃないか、とか、そういえば最近新しい洋服を買っていないんじゃないか、とか。

というわけで、今はできる限り背筋を伸ばして、姿勢に気を付けながら文字を打っている。 パソコンで文字を打つときは、必然的に目と画面との間に距離ができるから、自分が打ち込んでいる文字以外のものがいろいろと視界に入ってくる。手とか壁とか床とか机とか机の上に置いた小物とか。余計なものがたくさん目に入る分だけ、スマホで打ち込んでいるときのように画面の中へのめり込まんとする没入感がないから、集中力は途切れやすい。でも、その分、頭だけの世界に没頭して終わりのない思念のループから逃れられずに苦しむということも少ないような気がする。

 

ただ、私は別にそういう効果を狙ってノートパソコンで日記を書いてみようと思ったわけではなかった。昨日の昼過ぎに、私の使っていたスマホが突如ブラックアウトして、それからウンともスンとも言わなくなった。丸二年は使ってきた、iPhone6。数ヶ月前に画面が割れてから基盤が剥き出しになるくらい破片がこぼれ落ちても構わずに使い続けてきたのだが、それもついに限界を迎えてしまった。だから日記を書くときも仕方がないからパソコンを使うしかない。

ハプニングが起こると、それはそれで元気が出る。もちろんiPhoneが使えなくなったのは不便だ。でも、よく考えたらここ数年はずっとスマホに頼りきりの生活を送っていたから、そこからついに解放されるという嬉しさもあった。なによりスマホが壊れたことで、私の目の前に新しい課題が現れたのが嬉しかった。最近はひたすらネットの求人サイトを見て「どこのバイトの面接に行こうか…」ということばかり考えながら鬱々とした数日間を過ごしていたのだが、スマホが壊れて電話が使えなくなったことで、それどころではなくなった。電話が使えなくなったら、仕事どころではない。仕事を探すより電話を探すことの方が今は緊急性が高い。四の五の言っていられない。

考えてみれば、住民票を新発田から横浜に移したのも、免許証を無くすというハプニングが背中を押したから成し得たことだった。自分だけではなかなか踏ん切りが付かないことでも及びも付かないところから不意打ちされることによって弾みが付く、ということがある。

そのときはコンビニで免許証のコピーを取った後、コピー機の中に免許証を置き忘れて二週間くらい気が付かなかった。気が付いてから思い当たるコンビニというコンビニを何件も巡って店員さんにお願いして、警察署にも出向いてわざわざ紛失届まで書いた。結局、紛失届を書き終えた後にダメ元で立ち寄ったコンビニで発見、またすぐに警察署に戻って紛失届は取り消してもらった。見つかって本当に嬉しかった。あまりにも嬉しかったからその弾みで、ずっと迷っていた横浜への住民票の移転届を提出できたのだった。

そもそも住民票を移す手続きをするつもりだったから免許証のコピーを取りに行ったのに、いざコピーを取ってもそれを市役所に提出する踏ん切りが付かないのだから、私の優柔不断さも酷いものだと思う。迷ってばかりだ。迷ってばかり。自力では迷いの中から抜けられないから、こうやっていつも外側から訪れる偶然に導かれて歩みを進めているのが、私の人生のような気がする。

そういえば、免許証を見つけたときはもちろん嬉しかったのだが、いま思えば免許証を探すために必死にコンビニの店員さんに聞き回っていたことの中にも不思議な嬉しさがあった、ということを書きながら思い出した。コンビニの店員さんとは、いつもなら商品をレジに通すときに機械的な会話をするだけだ。でもそのときに限っては、誰もが人間的な対応をしてくれた。こちらが誠実にお願いすれば、それに応じて答えてくれた。私も事情が事情なだけに必死になるより他に仕方なかった。いつもはシステムの中に馴らされていても、一枚剥がせば誰でも暖かい血が流れている。その暖かさに久しぶりに少しだけ近づけた気がして、嬉しかった。

 

話を戻す。というわけで、今の私には「なんとかして携帯を入手する 」という緊急性の高い課題が目の前にあって、今日は中古のスマホを探したり調べたりしていた。だから今日中には新しい携帯を手に入れよう、と意気込んでいたはずだったのだけど、途中でまた興味が逸れて、なぜかいきなりバリカンで自分の頭を丸刈りにしたり夜中に中古屋で服を買ったりしていた。自分でも自分がどうしてこんなに脈絡のない行動を取っているか分からないので、そのことについて今の時点ではまだ上手く言葉にすることができない。ていうか、この間の座禅のときもそうだったけど、なにごとも体験した直後はうまく言葉することができないものだと思う。自分にとって意義深い体験であればあるほど、今の自分自身が持っている言葉では表現しきれない。

 

なんというか、ここ一ヶ月くらいは自分がこれからどうやって生きていくかということばかり考えていて落ち込んでいた。こうやって分かりやすくビジュアルを変えることができて、外側のモノに目が向けられるようになったのは良かったと思う。こういうのはどん詰まっているときほど効果がある。そういえば十代の頃も季節と一緒にガラッと髪型を変えていた。十代の頃の気持ちを未だに引きずっているのだとすれば、見た目も十代の頃に近づけていけばいいのかもしれない。

ふと気が付くと、また猫背になっている。この間、座禅をしていたときも気付くとすぐに猫背になっていて、背筋を気にしているうちに終わってしまった。いっそ明日は猫背にならないことだけ気にして生活してみようか。