9月8日(水)

ハリーポッターシリーズの続編というかスピンオフ作品の『ファンタスティックビースト』を何の期待もせずに観たら面白くて良かった。やっぱりこれだけ有名な作品だとエンターテイメントとしての完成度が高くて普通に面白い。魔法のCGエフェクトを見ているだけでも楽しい。何も考えたくないときに何も考えずに楽しめるからいいなあ。それでいてハリーポッターシリーズの登場人物の過去が掘り下げられたりしていて、その辺も面白かった。実在しない人間の過去を遡ることがどうしてこんなに面白いんだろう。実生活に何の関わりもなく何の役にも立たないのに。

九月に入ってから少し時間にゆとりができて、こんな風に映画を観ることもできるようになった。

この間は「エヴァンゲリオン」新劇場版四部作を観た。まあまあ面白かったけど、それほどではなかった。あと昔読んで心に残っていた、いがらしみきおの「i」という漫画を読んだのだけど、これもなんか違った。なんだろう、構えすぎたのかもしれない。どちらも中身に深みがあることで定評のある作品だったのだけど、そのもっと手前のところで感受性がフィットしなかった。具体的には、エヴァンゲリオンに関しては、そもそもおれはロボットの戦闘シーンとか美少女アニメっぽいシーンとか声優の声とか子どもの頃から苦手だったよなと再確認した。いがらしみきおさんの漫画に関しては、絵柄が好みでなかった。作品の中身以前に、表層的なところで引っかかってしまった。

 

ところで私には、漫画でも映画でも小説でもなにか作品を鑑賞するときに、つい何かを「吸収しよう」と身構えてしまうという良くない癖がある。無意識に何かを「得よう」「学ぼう」としてしまって、作品を素直に楽しむことができない。へんに志が高い、というか、肩肘を張ってしまって、純粋に娯楽として楽しめない、というか。

これは私が子どもの頃から本や映画や漫画などの文学作品にあまり触れてこなかったことも原因の一つではないかと思っているのだけど、私にとってそれらを見たり読んだりすることは日常と地続きの自然な行為ではなく、「わざわざ」「あえて」そうしようと思わなければやらないこと、という不自然さというか抵抗感のようなものがある。面白そうな本や映画があっても重い腰を上げないと観る気にならないので、日常的にはユーチューブでくだらない動画を見たりどうでもいいネットの記事を読んで時間を潰してたりしてしまう。疲れているときほど脳に負荷が掛かるものを取り込めない。

面白そうなものほど脳に負荷が掛かる。であれば、コンディションの整ったときに観よう。そう思う。でも、コンディションの整ったときなど待っていても永遠に来ないので、結局くだらないコンテンツに時間を取られて、観るべきものを観れないというジレンマ。だからこそ、日常的に本を読んだり映画を観たりする文化的な感受性の高い人に対して憧れがある。

 

ただ、書いてて思ったのだけど、意外とみんなそんなものなのかもしれない。自分にとって吸収すべき対象の本も、誰かにとっては単なる娯楽なのかもしれないし、その逆に自分がただ楽しむために観ているコンテンツが、違う誰かにとっては脳に負荷が掛かる内容なのかもしれない。

優れた芸術は優れた娯楽でもある、という言葉がふと頭をよぎった。芸術というと高尚なもの、娯楽というと低俗なものという印象があるけれど、どんなに深淵なテーマを扱った芸術作品でもそこに快楽がなかったらそもそも鑑賞する気にならないし、どんなに快楽主義的な娯楽作品でも軽薄な要素ばっかりだったら興味は持続しない。そういうことなんじゃないか。そういうことなんじゃないかと思った。