7月29日(金)

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なぜか無性に眠たくて、今日は一日中冷房の効いた部屋で横になっていました。こんばんは。1時間くらい前にツイッターをパラパラ見ていたら、おかずクラブが出ている『ほろよい』のCMがタイムラインに流れてきて、気づいたら部屋を出てコンビニに向かっていました。『白いサワー』と『冷やしパイン』を飲み干して、今は頭をフラフラさせながら、スマホに文字を打ち込んでいます。冷房の効いた部屋にいるから実感が湧かないけど、家からコンビニまでの道は予想以上に蒸し暑くて、ああ夏なんだなぁと思いました。それだけの一日でした。

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この間も少し書きましたが、最近よく他人を見ると「この人はこうやって生きているんだなぁ。自分が同じ立場だったらどうするのかなぁ。」ということを考えるようになってきました。だからと言ってどうこうということは無いんだけど、今まではそんなこと考えたこともなかったから、もしかしたらこの延長線上に「働く」とか「生活する」とか、大袈裟に言えば「生きる」とかっていうことがあるのかなぁ、と思うようになりました。

これも前に書いたことだけど、自分は今までずっと「生きる」ってことの埒外に自分を置いてきたような所があります。「金を稼ぐ」とか「結婚して子供を育てる」とか、現実的なことは全て「自分以外の人たちにとってだけ関係があること」で、今ここで生きている自分っていうのは、そういうことを考えなくていい存在として宙に浮いているような感じがありました。「なんで学校に行かなきゃいけないんだ?」とか「なんで働かなきゃいけないんだ?」とか「俺はこんなに悩んでいるのになんでみんな平然としているんだ?」とかそんなことばっかり考えて、世の中は自分の為に作られているわけじゃない、という冷淡な事実をなかなか受け入れられませんでした。と言っても、今もまだ駄々をこね続けて生きているんだけど、最近は少しずつ「他の人たちに起こっていることが自分にも起こるかもしれないんだなぁ」という当たり前のことを思うようになっています。でも、まあ、そうは言いつつ、本当は無理やり自分を社会に適応させようとしてるだけなのかもしれないし、それはよくわからんなー。

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誰が読んでいるのかわからないけれど、ほとんどの人が「読んでいるよ」なんてわざわざ連絡して来ないから、結局、誰が読んでたって同じことだと割り切りながら、書き進めていきます。

一人でいる時間が長いので、普段、私はひっきりなしにスマホで動画を見ています。くだらない動画もよく見ますが、いわゆる「知識人」と呼ばれるような、小難しい話をしている人たちの動画も見ます。批評家、思想家、評論家、学者、編集者、ジャーナリスト、哲学者、作家、研究者、なにかの組織の代表者…、まさに耳学問という感じですが、著名な言論人が出演するラジオ、講演、番組をネットで見つけてきては、ヒマな時に聞いてます。自分ではなるべく思想的に偏らないようにしているつもりですが、たぶん、どうしたってある方向に偏っているとは思います。別に「世の中間違っている!」とか「あいつの言うことは絶対許せない!」とか「どうしてもこれだけは社会に訴えたい!」とかはないのですが。身体をあまり動かさない分、ただ耳からの情報で脳に刺激を送っているだけかもしれません。何もしてなくても世の中のことを分かったつもりになれるし、圧倒的に一人でいる時間が長いので、ある意味、都合のいい話相手みたいになってるのかもしれません。でも、そういうことばかりでもなくて、純粋に面白かったり、心が奮い立ったり、反省させられたり、不安が和らいだりするときもあります。何より、日常生活なら「考えすぎだよ!」とか「屁理屈ばっかり言って!」と言われて封殺されていたであろう疑問を、とことん考え続けている人がいるということに、嬉しくなります。

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でも、これまた最近よく思うことなのですが、色々な人が色々なことを言うけれど、結局、ほとんどの人は同じことを言おうとしているのではないかな、と思うようにもなってきました。まあでもこの話は長くなるからまた今度にしよー。

私は普段「『好き』とか『嫌い』ってなんなんだろう」とよく考えるのですが、考えれば考えるほど、その輪郭がぼやけて消えていくような感覚になります。自分の気持ちにぴったりはまる言葉がないかと探しているうちに、初めに感じた感情自体がどんどん違うものになって、再現なく考え続けなければならなくなっていきます。最近はだんだんと「『好き』『嫌い』なんて、そんなハッキリ言えなくてもいいじゃないか」という気にもなってきました。ときどき、「『好き』『嫌い』が無くなった世界は、ある意味、天国のような世界なのではないか」と思うことさえありますが、でも、それはもう人間じゃなくなってるのかもしれないですね。まーよく分からんのですが。

さて。つまり私は「理性で感情を乗り越えられるんじゃないか」とどこかで思っている節があるようです。だから、理性的であるはずの知識人が平気で『好き』『嫌い』と言ったりするのが、不思議でならなかったりします。何が『好き』で何が『嫌い』かっていうのは、一個人の中でそんなに明確に感じられるものなんでしょうか。いや、もちろん私も、『好き』とか『嫌い』って言ったり思ったりしますけども、でも、その時もやっぱり「正確に言葉にしてないな」という気持ち悪さをどこかで感じているような気がします。うーん、でもなかなかそう言い切るのも難しいですね。やっぱり感情の問題なので、具体的な状況に置かれた時でないと、ちゃんとしたことは書けないのかもしれません。

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さて。また今日もグダグダ書いてきましたが、「理性で感情を乗り越えられる」なんて、また大袈裟なことを書いてしまいました。どうなんでしょうね。でも、『好き』とか『嫌い』って「自分は相手のことを理解している」という前提で使われているような気がして、そこがいつも引っかかるんだよなぁ。理解できない相手を『好き』も『嫌い』もないだろうっていう。もちろん人間相手じゃなくて、「ぬいぐるみ」とか「インテリア」みたいに「変わらないモノ」に対して言うならまだ理解できるんだけど、でも、それにしたって自分自身も変わっていくしなぁ。たぶん私は、どこにいても自分自身に目が向いている時間が長いから、「〇〇が『好き』!」とかって言うより、「〇〇を『好き』って思えるような自分になりたい…」みたいに発想しがちなのかもしれないなぁ。まあ、よくわからんのだけど。

という感じで、今日は、最初から最後までよくわからない感じのまま、終わりたいと思います。おやすみなさい。

《つづく》