12月7日(火)

日記を書きたいのだが、いざ書きはじめるとなんだか全てが違うような気がして書けなくなる、という症状に、このところずっと悩まされている。いやしかし、こんなものを悩みなどと言ってはいけないような気もする。なんだ悩まされているってべつに悩まされてなんかいない。おかげさまで何不自由ない生活を送らせてもらっている。

数ヶ月前まで今日食う豚肉を買うのにも躊躇していた私が、いまや最近の物価上昇で普段より100円高い豚肉だろうが、業務用とはいえ天然の腸を使用したソーセージだろうが、「高いけどまあ自分へのご褒美ってことで」という具合に買ってしまえるようになった。豚肉が買えないと悩むのなら分かる。豚肉が買えないと嘆いてそれを文章にして吐き出すのなら分かる。でも豚肉を買った上で、それでも書く文章ってなんだ。おれはこれ以上何を手に入れようとしているんだ。

いや手に入れたいものなら他にもある。新しいiPhone、新しい靴、新しいセーターなど買いたくても買えないものなら山ほどあるが、いやそういった欲望とはぜんぜんべつのところに文章を書きたいという欲望はあったはずだ。何かを手に入れたいとかそういうことは、文章を書きたいという気持ちとまるで関係ない。自分は何を書きたいのか。それが分からない。

 

豚肉すら買うことができない、そういうことを悩みと呼ぶのなら分かる、と、今書いたが、果たしてそれも本当かどうか、よく考えたら分からなくなった。豚肉を食べたいのに食べられない。そういうときはもはや悩まないのではないか。やるべきことが目の前にあって、それを粛々とやるだけ。まさにこの四月五月ごろの私は、そういう状態だった。やるべきことが明白で、それをやるしかないと思っていたから、余計なことをいろいろと思い悩むヒマもなかった。

私が悩んでいたのは、よく考えたらむしろ豚肉をたべることができていたときだ。自分で金を稼いでもないのに豚肉を食べることができていたとき。なにもかも宙ぶらりんだったとき。反抗していた親から仕送りをもらうという矛盾を続けていたとき。私は自分と社会の狭間で悩んでいた。それこそ正しくモラトリアムというものをやっていた。自分がおかしくなっていくと思っていたが、おかしくならなければこの先もっとおかしくなると思っていたから、おかしいと思いながらおかしい生活を続けていた。絡まった糸をほどくには、固まった部分を一旦ほぐして広げなければいけない。部屋の片付けをするときには、押し入れに入っていた物を一旦外に出して広げなければならない。そういうものの一環で文章を書いていた。ような気がする。

 

何を書きたいのか分からないが、中身よりまず書くこと。出来不出来は書いた後に判断する、というか、判断しないほうがいいのかもしれない。書きはじめると、いつも途中で「おれが書きたいことは本当はこんなことじゃないんだ」って気持ちになって、書くこと自体が嫌になってくる。今もそう。他に書くべきことは山ほどあるのに、そういうものに言及できないで終わってしまう。