9月4日(日)

社会性のある人間に限って「おれたち変人ばっかりだな(笑)」とか「尖った人材になれ!」みたいなこと言ったりするけど、ああいうのまじでうんこですよねおはようございます。そういうおれも自分がどのくらいおかしくて、どのくらいまともなのか分かってないんですけど、いや、でも、もしかしたらそういう発想がもうだめなのかもしれないな。「空気読みたくない」とか言いつつ、自分でも訳わかんないくらい空気読んだりしてるもんな。さっきもコンビニで買い物してたとき、「レジで精算を済ませた後もずっとレジの前に立ち続けてたらどうなるんだろう?」って一瞬思ったんだけど、やっぱりできないもんね。する意味もないしね。「社会性」とか「コミュニケーション能力」とか、なんなんだよまじでって思ったりするけど、おれだって普通と異常のラインを無意識の内に引いてるわけで、そんなに単純に批判したりとかはできないんだなぁ、と思った夕方でした。もう夕方ですよ、どうしよう。

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そういえば、この間タウンワークを眺めていたら「ありのままのあなたで大丈夫!」と紹介されている仕事があって、「なんだろう?」と思って見てみたら(何の仕事か忘れたけど)『一人で黙々と作業するだけなので誰とも話さなくても大丈夫です』と書かれていて、その時はさすがに笑ってしまいました。「ありのまま」ってそういうことか!っていう。これに限らず「ありのままのあなたで大丈夫」なんて、まるで何かの決め台詞かのように簡単に言われることがあるけど、結局それも「誰から誰に向けて言われたのか」ってことだけが重要で、聴き心地がいいだけの綺麗事なんて、すぐに良いように利用されちゃうんだなぁ、みたいなことを思いました。

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昼過ぎに目が覚めてから、とくに腹が減っているわけでもないのにコンビニでお菓子とアイスとほうじ茶を買って駅前のベンチに座りながら食べていた。そんな一日。オシャレなお姉さんに「カットモデル募集してまーす」と言われながら手渡されたティッシュを「あ、すいません」と断った後で「やっぱりそろそろ髪切った方がいいかな…」と思ってファミマのトイレで自分の天然パーマを確認するような、そんな一日を過ごしている。何気なく駅前の観光案内を見ていたら、八王子にも川があることを発見して、退屈しのぎにそこまで歩いてみることにした。 音楽を聴きながら街を歩くと、数分で川に着いた。川と呼ぶには水量が少なすぎるけど、近くに誰もいない小さな公園があって、今はそこのベンチに腰掛けながらブログを更新している。都会の喧騒から離れて、辺りは見慣れた住宅街だった。

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何かから逃げているときほど愚痴っぽくなるものだ。私の場合、それはバイト募集の張り紙に電話を掛けるということになるんだろうけど、もしおれが本当に心の底から「バイトをしよう」と思っていたら、こんなに躊躇するもんだろうか、なんて、また余計なことを考えてしまう。ほとんどの人は、生活のため、金を稼ぐため、と割り切って、場合によっては不安から、多くの場合は何も考えず仕方なしに、労働へと自分を駆り立てている。そういうものだ。少なくとも私はそういうものだと教わってきた。でも、それだけじゃダメなこともまた、私は知っている。それだけでいいのなら、私は普通に大学を卒業し、普通に地元で公務員にでもなって、普通に家族を作って、普通に生活しようとしていただろう。でもそうじゃなかった。自分の気持ちを無視したまま社会のペースにだけ合わせていても、何も幸せじゃないどころか辛くなるばかりだということを知った。だから私はここにいる。でも、じゃあ、自由になって幸せになったかと言えば全然そうじゃない。社会のペースに合わせられなかったからって、社会を無視して生きていけるわけじゃない。自分の気持ちというものを大切にしながら、それでもどこかで社会と繋がって生きていかなくてはいけない。自分の気持ちなんて、そんなあるのかどうかもよくわからないものを頼りにしながら、社会と関わっていかなくてはいけない。おれはおれだ。そんなこと分かっている。でもその「おれ」はバイトの面接の電話を掛けるのにビビるような「おれ」だ。自分の気持ちなんて、そんなのいつでも明確にわかるようなものじゃない。でも、社会のペースに合わせられないなら、社会のペースに合わせたくないなら、自分で一つ一つ決めていくしかない。それが昨日、ドンキホーテマッサージチェアで腰を揉まれながら思ったことだ。バイトをするかどうかさえ、自分で決めていい。東京にいるかどうかさえ、自分で決めていい。大切なのは自分で決めるということだ。誰のせいにもしないで自分だけで決められるかどうか。何の根拠もなくていいから、ただ自分で自分の選択に責任を持てるかどうか。そんな当たり前のことさえ、今まで一度も考えたことがなかったんだから、やっぱり今、自分は大切な時間を過ごしているんだと思う。どんな選択をするにせよ。

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昨日、今までのことを振り返りながら、「結局、自分は自分の人生で大事なことをほとんど自分で決めてこなかったんじゃないか」という重大な結論に行き着いた。高校も大学も、自分で決めたようでいて自分で決めたような気がしない。2年間住んでいたアパートから、今日着ている洋服まで、たしかに自分で決めたはずなのに「自分で決めた」という実感がない。もっと言ってしまえば、言いにくいことだけど、一年ほど付き合っていた彼女とのことも、もしかしたらそうだったのかもしれない。一緒にいた人も、少しの間だけ働いていた仕事も、中学生の頃に入っていた部活も、1年前の台湾旅行も、自分で決める前にいつも誰かに決めてもらっていた。今までそんなこと問題だと思っていなかったし、人生なんてそんなもんだとも思っていた。でも本当にそれだけだったとしたら、じゃあこれからおれはどうやって生きていったらいいと言うのか。また誰かから声がかかるのを待つのか。ブログを読んだ人とかが勝手におれを面白いと思って声をかけてくれたりするのか。そんなはずない。それに、結局それは社会のペースに合わせるってこととどう違うのか。それでいいのか。そういうことに耐えられなくなったから、今ここにいるんじゃないのか。金を稼ぐにしろ、誰かと楽しく暮らすにしろ、自分で決めなければ何も始まらない。もしそれで誰かに迷惑がかかったり、自分ばかりでなく誰かを不幸にすることがあっても、それでも自分で決め続けなくてはいけない。関わりたいと思う誰かがいるなら、まず自分から相手に関わっていく。遊びも仕事も恋愛も、たぶん結局はそういうことだ。自分の決定に他人を巻き込むことがあっても、そのことを恐れてはいけない。私に恐れていることがあるとすれば、それだ。

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《つづく》書き途中