10月9日(日)

布団に寝転びながら図書館から借りていた本を何の気なしに眺めていたら、パッと印象的な一文が目に飛び込んできた。

おもしろいと読者が思うのは、描かれている内容自体がおもしろいからであって、書く人がいかにおもしろく思っているかを知っておもしろがるのではない。美しい風景を描いて、読者もまた美しいと思うためには、筆者がいくら「美しい」と感嘆しても何もならない。美しい風景自体は決して「美しい」とは叫んでいないのだ。その風景を筆者が美しいと感じた素材そのものを、読者もまた追体験できるように再現するのでなければならない。(本多勝一『わかりやすい日本語の作文技術』)

文中では、それに続いて以下の言葉が引用されていた。

文章というものは、このような自分の言葉をもって対象にせまり、対象をとらえるのであるが、それが出来あがったときは、むしろ文章の方は消え、対象の方がそこにはっきりと浮かび上がってくるというようにならなければいけないのである。対象の特徴そのものが、その特徴のふくんでいる力によって迫ってくるようになれば、そのとき、その文章はすぐれた文章といえるのである。(野間宏『文章入門』)

どちらの言葉も、一節だけでものすごい説得力を持っている。私は「どうせ趣味で書いているだけだから…」とどこかハンパな気持ちでブログをやっていたのだが、久しぶりにプロの手によって書かれた文章を読んで「さすが…」と関心してしまった。言わんとする内容もそうだが、この文章自体が明快で、かつ真実味がある。

インターネットのおかげで、誰でも自分の書いた文章を自由に公開したり、タダでいろいろな文章を読んだりできるようになった。でも、むやみに言葉に触れすぎて、むしろ心が擦り減っているように感じるときも多くある。友人の些細なつぶやきなんて、本来なら知る必要もない。知人が今夜どこのお店で飲み会をしたのかなんてどうでもいい。私はツイッターで2000人近くフォローしている人がいて、フェイスブックで200人近く繋がっている人がいるのだが、99パーセントの投稿が、自分の心を波立たせる、読んでも毒にしかならない内容ばかりのような気がしている。それでも読みに行ってしまうのは、私が一人でいることに耐えられないからだ。寂しさから逃れようと人の気配がするほうにフワッと吸い寄せられては、楽しそうにしている人の群れを遠巻きに眺めて、「愛想笑いばっかしてんじゃねーよ」と、心の中で悪態を吐くようなことばかり繰り返している。彼らが悪いわけではない。そしてきっと、私が悪いわけでもない。何かが悪いからそうなっているわけではなく、大袈裟だが、生きていくっていうのはたぶんそういうことなんだろうと思う。

文章の前で徹底的に一人になることを通じてしか、文章を読んでくれた誰かの感情に揺さぶりをかけることはできない。でも本当は、文章の先にいる誰かのことなんてどうでもいいのだ。この文章を読んだ人が私に対して何を思おうが、それを書いている今の私には一切関係がない。誰かに呼びかける必要もなければ、誰かの気を引く必要もない。私は最初から一人で、これからもずっと一人で、私が気にかけてならない私以外の大勢の他人もみんなそれぞれ一人だ。一塊りのように見える人たちの群れも、一人一人は独立した感情を持って、ただ物質的に同じ空間を共有しているに過ぎない。人と人が繋がるっていうのは、きっともっと難しい。