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11月19日(土)

ライターの雨宮まみさんが亡くなったことを、昨日ツイッターで知りました。軽く見渡しただけでも、生前親交のあった人たちや、彼女の言葉によって励まされた多くの読者の間に大きな衝撃が走っているのを伺えます。私は彼女について多くのことを知っているわけではありませんが、代表作である『女子をこじらせて』という本なら一時期熱心に読んだことがあります。ウェブ上で何度か彼女の連載を読んだこともありました。自分にあまりその必要がなくなったのか、最近は彼女の書いた文章を読むことは少なくなりましたが、それでもちょくちょく発言をフォローしており、また何かで辛くなったときには読むことがあるかもしれないなと、どこかで勝手に彼女の書く文章を信頼していました。というより、していたようでした。彼女が亡くなったと聞いて、無意識に自分が少なからずそう思っていたことに気付きました。

誰にも打ち明けられないような悩みを抱えているときやどうすればいいかはわかっていても自分一人ではとても自分自身を支えることができないとき、誰かの書いた文章が、たとえ自分と何の関係もない誰かであっても、とても大きな力を持つことがあります。彼女が私にとってそういう存在だったかといえば、正確に言えば少し違うのですが、私の知っている範囲では、プロとして文章を書くということの誇りや気概を感じさせる数少ない書き手の一人だと認識していました。とくに『女子をこじらせて』を読んだときはこれほどまでに言葉で自分の内面に迫っていけるものなのか、そしてそれを曝け出せるものなのか、と、心を動かされた記憶があります。私にとって文章を書くということは、どちらかというと現実逃避として、向き合わなければならない自分自身の何かから目を背けるためにやってしまいがちな行為ですが、彼女にとってのそれはまったく違うものだったでしょう。今回の出来事は私にとって、そういうことを考えさせる貴重な機会になりました。

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さて。そんなことを思いながら船に揺られて、今日は佐渡までやって来ました。佐渡の家で、一昨日カンボジアから帰って来たというH氏と大阪からわざわざやって来た女性とともに、ソーメンを茹でて食べたり、お茶を飲んでダラダラしたりしています。下手に家でダラダラすると、夜寝付くのが遅くなったり、罪悪感が溜まって外出するのが億劫になったりしますが、出先でダラダラするとそういうことがあまりなく、本当にダラダラできるのでとても良いです。今、こたつに足を伸ばしつつ、本当にダラダラしながらブログを更新しています。

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話を戻します。雨宮まみさんの訃報に関連して、私は女性の書き手による文章をよく読んでいた時期がありました、という話をしてみたいと思います。それは別に女性だから優れた文章を書けるとか、私自身が「女性的な感性」(そんなものな)に共感するからということではありません。自分に対して鋭く疑いの目を向け、かつ、自分の内面的な問題に真摯に向き合っている(と私が思う)文章の書き手にたまたま女性が多かったというだけのことです。

しかし、これは私の主観ですが、男性は、社会や経済などの主語の大きな文章を書くことはよくしますが、あくまで自分自身の内面的な問題に対して粛々と、かつ赤裸々に自分語りができるような書き手はそれほど多くないという印象があります。今でこそ社会学者・田中俊之さんを初めとする「男性学」という学問分野が一部で注目されるようになり、この社会において男性が男性であるがゆえに抱えてしまう生きづらさ(大学卒業したら定年するまでずっと働き続けてなきゃいけないプレッシャーとか)みたいなことが問われるようになってきていますが、それも「学問」という後ろ盾があっての話です。個人的には私自身も、社会や思想などの主語の大きな話が大好きな部類の人間なのですが、本当ならそれよりも自分の気持ちの変化に敏感でいることや、またそれを言葉として外に出すことの方が、現代日本の男性にはとくに求められているのではないか、と、また主語の大きな話をしてしまいました。とにかく私はそういう理由で、男性であるにもかかわらず(というかそういう人は結構いると思いますが)おそらく現代日本で生きづらい女性向けに書かれたであろうエッセイを読んで、自分の内面的な問題に照らし合わせることがよくありました。雨宮まみさんもそういう文脈で知ったことになります。

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さて、ここからが本題なのですが、

〈更新中〉