読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

12月4日(日)

深夜4時まで起きていたせいで、目が覚めたのはもう昼の1時過ぎだった。居間に降りると、テーブルにはドライフルーツのかかったヨーグルトと冷凍されたパンが置いてあった。パンをトースターにかけてジャムとバターを塗って食べた。それから何をしていたかは覚えていない。シャワーを浴びたり服を着替えたりなんかしているうちに時計は3時を回っていて、いつもみたいに布団の上に寝転びながら、また部屋の片付けに取り掛かろうとしていた。

昨日の日記にも書いたように、私の部屋は姉が小学生の頃に使っていた学習机が大きな邪魔になっていた。ふいに思い立った私は、まず付属していたパイプ椅子を隣りの使っていない部屋に移して、それから学習机を持ち上げて部屋の入り口まで運んだ。幅がギリギリだったがなんとか外へと運び出した。部屋が広くなった。布団の向きを変えられるようになった。そして、そのタイミングで父が帰宅してきた。父は午後になるとよく祖母の家へと向かう。まだ5時だというのに空はもう夜のように暗くなっていた。

父は廊下に投げ出された机を発見した。そして、私が部屋で片付けの続きをしている間に六角レンチで解体を済ませてくれていた。本当なら部屋の机をどうにかするのは最後まで私がしなければならないことだと分かってはいるのだが、親子というものはどうしてもそういう境界線が曖昧になりがちだ。といっても私は父の決定や父の行動についてほとんど関与していないのだけど、しかしこれに限らず父は何も言わずに多くのものを私にもたらしてくれる。

父は私の口座に現金を振り込んでくれるばかりではなく朝と夕方に私の分の食事を作ってくれる。私が台所に置きっ放しにしている皿を勝手に洗ってくれるし、私が洗濯機に放り込んだままにしている洋服を知らぬ間に干してくれる。干した洋服を畳んで私の部屋まで持ってきてくれるのは父であり、私の留守中に私の部屋を掃除してくれ、燃えるゴミや燃えないゴミを出してくれるのも父である。何も言わずにそうしてくれる。

もちろん私は共同生活を営む一人の人間として分担すべきだった作業を何も言わずに引き受けてくれたということに関して父に感謝すべきなのだろう。しかしなんとなく感謝できない。なんなら「頼んでもいないのに無断で部屋の中に入って欲しくない」とさえ思い、「私は朝食を食べなくてもよいのにテーブルの上に食べ物を置かれるとつい食べてしまうじゃないか」「洗濯なり皿洗いなりも私のタイミングでしたいときにするのだから、私の分までしなくていいのに」と思ってしまう。でも、めんどうくさがりだから最終的には甘える。これはよくない。だから私はやっぱり実家に長くは居られない。実家にいると、なんというか、自分の意思で自分の行動を決定するという感覚がじわじわと失われていくような感じがある。

 

そんな父と今日は珍しくラーメン屋に行った。私が「ラーメン屋に行きたいのだが車を出してくれたりしないだろうか」という目をしながら父に「あそこのラーメン知ってる?」という話を振ると、父も話に乗ってくれたのだった。

今日ラーメン屋に行ったのはとても良かったと思う。私が「行きたい」と思って、頼みを父に伝えて、父もそれを受け入れて、二人でラーメンを食べた。食べたいと思ったラーメンを食べたいと思った瞬間に食べることができたのも素晴らしいが、この順序で物事が完結したというのがもっと素晴らしい。大袈裟なようだが、このようなプロセスを経て自分の欲求が満たされたことは、今までの私の人生でほとんどなかったのではないか。「何も言わずにしてもらう」「何も言わずにしてあげる」という関係性が当たり前になると、長期的に見たときにどうしてもお互いの意思疎通がぎこちなくなってしまうものだけど、今回のように「言ったことだけしてもらう」「言われたことだけでしてあげる」というやり取りができると、なんというか、お互いの意思決定を尊重した、風通しの良い関係性が築けるような気がする。なによりとても気分がいい。ラーメン屋まで車を出してくれたことについては、あと、奢ってくれたことについては素直に父に感謝できる。今日はありがとうございました。

〈更新中〉