自分の人生を語ること

低賃金の仕事で生活することや、インフォーマルな仕方で紹介されることが多い職をそもそもみつけることは、家族や家族のように付き合う仲間がいない場合、途端に難しくなるからである。

家族との関係が強いことは、たしかに悪いことではない。しかし一方で家族に恵まれていない人もおり、また家族に依存せざるをえない生活が逆に不幸な争いを生むこともある。


だとすれば、「家族」との関係を補う、または代替する制度やコミュニティをいかに作り出していくかが、流動化した労働環境では鍵になるといえよう。親の家を出て暮らすための低廉な公共住宅、より利用しやすい育児や介護サービス、または趣味を介した幅広い付き合いなど、家族の枠を離れた制度や関係性の土台が充実して初めて、転職や起業も綱渡りではなくなるのである。

地方都市の「非正規雇用」急増と格差拡大〜安定を望むことはできるか(貞包 英之) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)

さっき読んだ記事である。私がどうして働くことに上手く乗り出せないのか、どうして経済的な自立がとても困難なことのように感じられるのか、その、世の中的な事情がよくわかる記事だった。情報は力だ。世の中を正確に把握し、変えるべき所は変えようとする心が、前に進んでいこうとする自分自身を支えてくれる。

さて。私も今更こんなことは言いたくないのだけれど、父のことについて書く。一昨日の出来事もあり、私は自分が未だに父を激しく憎んでいるということを認めないわけにはいられなくなった。現実の私を直視しようとせず、いつまでも亡くなった兄や母のことばかりを考えて悲観に暮れる父。他人を批判するばかりで、自分自身の内面を決して見つめようとしない父。一人になると激しく不安に駆られるくせに、私の前では「ちゃんとした大人」を演じて高圧的な態度を崩そうとしない父。感情に任せて私を侮辱し、時が経つと一転してすがるように甘えた謝罪の言葉をかけてくる父。話すにつれ、次第に眉をひそめ、声を荒げ、感情のコントロールを見失い、私の言葉を受け入れず、冷静に会話を運んでいくことができない父。私は昨日、自分の人生をかけて真正面から父と向き合おうと試みたのだが、父によってそれは完全に裏切られてしまった。目の前にいる私を頑として受け入れようとしない父の未熟さを、私はありありと感じてしまった。父の前に私が立つと、父にとって私は話し合いの余地のない単なる異常者になってしまうようだった。私は虚しかった。一人の人間としてもう関わるに値しないと思った。私は、化膿して爛れた自分の内面を切り開き、現実の他者へ向けてつまびらかにしていくことを恐れたりしない。それをことごとく恐れているのが、父だった。

一昨日、新発田ジャスコのラーメン屋で、私は泣いた。車の運転中、また些細なことで口論になると、いつものように父は「俺たちはもう一緒にいちゃダメなんだって」と繰り返した。父は「変わりたくない」と、私の前で宣言しているようだった。父が私について語ることは、今ここに生きている私には、何の関わりもないことばかりだった。父はまたいつものように眉をひそめ、気色の悪い目付きをした。口調はどんどんヒートアップする。私は「おれの目を見て話せよ」と強い口調で父に迫った。そして父の話を聞きながら、その虚しさに思わず泣いた。父は困惑しながら「お前は何をそんなに恐れているのか」と尋ねた。私は「お父さんに怒られることだよ」と呆れながら言った。父は「そうか」と言って、ため息をついた。言葉の節々から、私と本気で向き合おうとしていないことが、伝わってきた。私は虚しくなって、家を出た。人をこんなにもはっきりと見損なったのは、初めてだった。

私は2歳の頃から新潟県新発田市に育った。幼少期に兄と母を亡くし、祖父母の家の二階、六畳二間の部屋に父と姉と私で暮らしていた。私は生活の至る所に自分の家庭環境の不自然な点を感じていた。職場の愚痴を延々と祖母に語り続ける父。そんな父を冷たい視線で見つめている祖父。祖父がその場を離れると途端に陰口を叩き始める父と祖母。祖父と一緒にいると表情がこわばる祖母。祖父や祖母や父の、私と姉に対する扱いの違い。祖父は私に優しく、姉には厳しかった。祖母もまた私に甘く、姉にはぎこちなかった。父は私に素っ気なく、姉に優しかった。私と姉はときどき二階の隅で、それぞれが家族に対して感じる違和感をこっそりと話し合っていた。子どもだった私には、他にどうすることもできなかった。

学校で、私は優等生だった。それを祖父は嬉しがり、家族の中で私だけは祖父に気に入られていた。私は子どもの頃、祖父によく懐いていた。しかし同居している父と祖母と姉の誰もが祖父に嫌われ、祖父を嫌っているらしいことに勘付くと、私は子ども心に自分が祖父と仲良くすることが、家庭内において自分の身を危うくするのではないかと思うようになった。彼らにならって、私は祖父との距離を置くようになった。祖父が私の頭を撫でたあるとき、私はそれを手で振り払った。拒否された祖父は激昂した。私はそうなるとわかっていた。たしかに祖父は他の誰もが言うようにヘンだった。思い出せばそれまでも、私に対する祖父の態度には気味の悪いものがあるような気がした。姉を女性だからと言って見下していたこと。カタカナすら分からないのかと、まだ子どもであるはずの私にキレたこと。ある日、祖父が私の長袖の中に手を入れて「こうすると温かくなるぞ」と私の腕をさすられたことがあったけれど、子どもながらに祖父との身体接触に対してなんとも言えない嫌悪感を抱いたこともあった。祖父は怪物のように扱われ、そして現に怪物だった。家の主でありながら、他の誰からも冷遇されていた。

祖母は、家庭の中でクッションの役割をしていた。自分の意見を主張せず、祖父からの暴言を吸収し、父からの愚痴を吸収し、親族からの相談を吸収した。祖母と私は二人きりで話すことが最も多かった。私は祖母からさまざまな話を聞いた。暴言を浴びせかけられながらも、祖父の父(祖母からすれば義父)を介護した過去。大家族なのに末っ子だった祖母だけが母を介護した過去。幼い頃に父を亡くしたこと。母を大切に思っていたこと。私だからこそ話せたと、そう言ってくれたこともあった。若かりし祖母の淡い恋。失恋からの祖父との出会い。当初からずっと夫婦仲が良くなかった最悪の結婚生活。そしてハキハキした叔母と、ウジウジした父が産まれた。父が女に、叔母が男に産まれれば良かったのに、と、祖母は今でも私によく言った。私には、祖父と祖母と父と叔母の家庭のことは知る由もないけれど、わずかに知っていることは、全て祖母から聞いたことだった。

父とは幼少期から今に至るまでほとんど血の通った会話をしたことがない。小学生の頃、合気道を習っている父に技をかけられて、腕を痛めたことがあった。私は恐怖を感じて、それを祖母にチクった。姉と喧嘩し、私は姉に何かを投げ付けて怪我をさせたあるときには、父は事情を聞きもしないで私を怒鳴りつけた。その時にはおぼろげだが、首を絞められたような記憶もある。父はずっと短気だった。ショッピングモールへ行くと「家族連れを見ると、死んだ母や兄のことを思い出すから…」と言って、家族で外出することを控えがちだった。まれに外出したにときでも、自分の思うようにいかないことがあるとキレて、私と姉を置いて帰って行ったこともあった。父と一緒にいて楽しいと感じた思い出はほとんどない。私が優等生だったことも、それほど好ましくは思っていなかったようだ。精神的に傾き始めていた高校生の頃、私の生活が荒れているにも関わらず学業成績は下がっていないことを、父が不思議そうに祖母に話していたのを私は聞いていた。父は人によって態度を変える。私に関することを祖母や姉の前で話し、姉に関することを祖母や私の前で話した。他人と正面から目を合わせて腹を割った話をすることができない。父にとって祖母だけが心の支えだった。祖母は父を甘やかした。甘やかしてきたと、私によく話した。父も祖父も祖母も人によって話すことや態度を変えた。私にはそれが理解できなかった。

高校生の頃から、私に対して父はよく「怠惰」「自堕落」という言葉を使って責め立てるようになった。父に対して私の気持ちが受け止められることは一度たりともなかった。子どもの頃の私の夢は警察官だった。父と祖父が警察官だったからだ。しかし姉は、そういう風に親に認められようと振る舞うのは好きじゃないと、私に言った。私は自分を恥じた。私は父にずっと認められたいと思っていたのだった。将来について悩む私に父が何か助言を言えば、私は「ああそうかもしれない」と思ってそれに従った。様々な局面で、私は祖父や祖母や父の期待に応えようと思っては、失敗してきた。自分の意志で、自分の考えで決めていないのだから、当然だ。私は家族に繊細すぎるとよく言われる。違う。繊細でなければ生きられなかったのだ。私と姉以外の大人たちがみな鈍感すぎたのだ。自分の中の闇を見ようとせず、他人を変えることばかりを求めて、根本的な解決を先送りにし続けてきた。私はそれが不満だった。

祖父と父は亡くなった母方の祖父母(本間家)と折り合いが悪く、その点だけにおいて意見が一致していた。祖母もまた祖父と父に同調して本間家を嫌った。祖母はいつも私の味方をしてくれたけれど、しかし誰の味方でもしたのだった。私と姉は、夏になると母方の祖父母の家へ遊びに行った。しかし家に帰るとなぜか祖父と父の機嫌が悪い。あるとき、帰ってきた私たちは祖父に呼び出されて「お前は本間彰人なのか稲村彰人なのか、どっちだ!」と激昂されたことがあった。意味がわからなかった。祖父と父の論理では「おれたちは孫と一緒に生活して負担があるのに、あいつらは孫と遊ぶためだけに来る。媚びるために金も与える。孫もあいつらに懐くだろうが、それは都合が良すぎる」というようなことだった。たしかに本間家では、稲村家の悪口のようなものも聞いたことがある。しかしそれは概ね当たっていた。異常に短気な祖父や父の性格がそうだ。けれども本間家の祖父もまた性格が荒っぽかった。事情は詳しく知らないが、要は短気な大人の男たちが喧嘩して気まずくなっているというだけの事だった。過去にケリをつけるため、成人してから一度、私は一人で約20年ぶりに彼らの家を訪問しに行ったことがある。母方の祖父は認知症になっていた。私のことは覚えていなかった。母方の祖母は病気で顔が黄色くなっていた。最初、彼らは私に気が付かなかったけれど、祖母が私を思い出してからは「こうして生きている内に会えるなんて嬉しい」と、そう懐かしげに言われると共に、また、稲村家の悪口を聞くこととなった。私は反論した。育ってきた稲村家も、そして生き別れのようになった本間家も、どちらが悪くどちらが良いということはない。私たちは何も知らなかった。つまらない大人の事情に子どもを巻き込んでほしくなかった、とそう言った。私は連絡先を置いて立ち去った。あれからずっと音沙汰はない。昨日、祖母に聞いた限りでは、去年の秋頃、彼女は亡くなったらしい。思い出せば思い出すほど、私は子どもらしくいられない子ども時代を過ごしてきてしまったのだな、と思う。しかし、私は今まで非があるはずの父や祖父や祖母を、真正面から恨むことさえできなかった。深く話をしようとすると全てが母の死や兄の死のせいにされてしまった。現に大変だったのだろう。苦しかったのだろう。しかし、それは私には分からない。そしてだからといってどうして私が苦しまなければならないのだろう。

私の人生には、私が物心つく前に起きた母の死と兄の死が、いつも影のようにつきまとっていた。私は母を知らない。兄を知らない。しかし祖父も父も祖母も姉も、彼らに対して何らかの悲劇的な記憶があった。母や兄について、私は祖母からよく話をきいた。乳がんに侵された母が祖母に「私、助かりますよね」と尋ねると、もう手遅れかもしれないと思いながらも祖母は「絶対に助かるよ」と答えるしかなかったのだという。私が生まれる前は父も母方の祖父母と仲良くしており、時期的に母の死と兄の死が重なったことで、家の中は激しく混乱していたそうだ。生前の母は厳しく、兄は活発だった。しかし私はそれを知らない。

私は父に自分の悩みについて話をすると、最終的にはいつも亡くなった母や兄の話にすり替えられて、私は父を慰めることしかできなくなった。初めて子どもを持った父は兄の扱い方が分からず殴ってしまったこともあったらしい。兄は父に懐かなかった。兄は近所の不良とつるむようになった。ある日、兄は不良と不良の親とともに川へ出掛けた。そして、溺れて亡くなった。父は不良の親を憎んでいた。しかしそもそも私は兄を知らない。父の悲しみも、その後の家族の苦労も知らない。父からはよく話を聞かされた。いかに大変だったか。いかに苦しかったか。子どもを育てるためには働かなければならない。金を稼がなければならない。ある日、父に尋ねたことがある。そんなことを言っても残された子どもたちの成長は楽しみでしょう、と。亡くなった兄や母だけでなく、私たちも愛していたのでしょう、と。そう子どもの私が尋ねたのだった。しかし父は答えなかった。答えられなかったのだと思う。私たちは、悲しみに暮れる父たちにとって、負担だった。そうとしか感じられなかった。

私には、父や祖母や祖父に気を遣って言えなかっただけで、本当は思ってきたことや感じてきたことが山のようにある。しかし、それは誰にも言えなかった。誰にも言えないことが、私には多すぎた。今、子どもの頃の自分を呼び覚まし、そして、もう一度その自分を生き始めようとすると、どうしても家族の問題にぶつかってしまう。私は自分がおかしいとは思わない。何事もなかったかのように、全てを弥縫策で包み隠そうとする家族の方がおかしいと思う。彼らにとってはそれでよくても、私にとってはそれでよくなかった。他者と継続的な信頼関係を築いていける力を、たとえ誰かに否定されても自分の意思を貫き通していける力を、物理的に最も近くにいた、「私のことを心配している」人たちの手によって奪われてきた。彼らは私の何を知ったつもりでいたのだろう。

 

と、長々と書いてきたが、私はまだまだ止まるつもりはない。私は一度、自分の中に巣食っている毒を全て出し切る覚悟でいる。それまでは止まれない。

あなたは「正しい親」をイメージできますか - シロクマの屑籠

そこへ、今の私を少し立ち止まらせてくれるような記事が流れてきたので、話は軽く逸れるが添付しておく。俗流毒親論に対する批判である。たしかにいずれ落ち着くところに落ち着くときには、こういう論理になるだろう。しかし結論を急いではならない。表面的な解決を目指してはならない。徹底的な対立があって初めて根本的な解決に至る。私は子の論理を貫き通して徹底的にぶつかっていく。

私は親に正しさを求めていない。むしろ「正しさ」にがんじがらめにされて正論を振りかざして来る父や祖父の存在が苦しくて仕方なかった。彼らの論理を内面化していた時は自罰的になっていたけれど、私は私の論理を生きるべきであり、それは場合によっては父の論理とぶつかるということだ。私は、他でもない私の人生を生きている。たとえ自分の人生を語ることで父たちの傷を掘り起こし、そして過去の悲しみや苦しみを思い出させたとしても、それはもう仕方がないことなのだ。私は私の気持ちを語る。私は私だ。 

 

今になって私は、どうして自分が世間で言う所の引きこもりになったのか、その理由をなんとなく理解することができる。私は、子どもの頃からずっと感じ続けてきた違和感を誰にも口に出すことができなかった。そしてそのことが他人と信頼関係を築いていくときに大きな障害になっていた。友人と遊んでも、心療内科で薬をもらっても、いつも胸の隅で虚しさを感じ続けていたのは、ずっと私が私自身の人生を語ることができなかったからだ。自分さえ自分の気持ちがどこにあるのか分からず、他者に向かってどんな顔をしたら良いのか分からなかったからだ。私は、あえて、ずっと誰にも言えなかったことを、誰にも読める場所に書く。そうすることによって自分を救う。この文章をここまで読んだ人はどれほどいるだろう。そして、それはどこに暮らし、どんな人生の物語を生きてきた人なのだろう。しかしこれを読む人が誰であれ、私の目の前に立つ人が誰であれ、私にとっては自分の気持ちや、自分の人生に対する解釈を更新していくことの方がずっと大切だ。私は自分の気持ちしか分からない。自分の人生しか分からない。

 

私は自分の人生がうまくいかないことを他者のせいにしているという意味で未熟だ。経済的に依存しているという意味でも、生活面で依存しているという意味でも未熟だ。もう24歳にもなろうというのに、と、何度批判され、何度馬鹿にされてきたことだろう。しかし父は、俺にもっと金があれば(私を一生面倒見られるのに)、と祖母に漏らしたという。そうではないはずだ。祖父も父も祖母も、本当の意味で私の自立なんて望んでいない。批判できる対象を、自分の孤独から目を逸らさせてくれる存在を求めている。私が変わらなければ、誰も変わらない。だから私は家族から離れたかった。地元を捨て、自分の心にだけ従って生きていきたいと思った。しかし戻ってきてしまった。

〈更新中〉