#10

21時58分。新発田駅から新潟駅へ向かう列車に乗っている。自宅から駅まで30分ほど歩いてきたので、身体が軽く汗ばんでいる。左斜め前には30代後半の若手社長風の男性が二人が座っていて、なにやら大きな声で「草取りだって社長の仕事ですよ」「やっぱり新卒で入ったのを一から教育しないと。中途採用の人ばっかり採用して、他の会社だったらこうでした、みたいなことを言わせてても仕方がないんすよ」というような話をしている。社長らしく強そうな格好をしていた。

22時27分、新潟駅に到着。これから、新潟駅南口を24時ちょうどに出発する高速バスで東京駅まで向かう。しばらく時間があるので、とりあえず駅構内のベンチに座って時間を潰す。さっきから目の前を20代後半くらいのホスト風の男性が歩き回っていて、電話で愚痴っぽく話をしている。しばらくして電話相手と思われるスーツ姿の男性と合流すると、右側の出口の方へ向かって消えていった。人が来ては、人が去る。なかなか時間が経たない。時刻は22時40分。

 

新潟には、一昨日の深夜に到着した。電車に乗って実家へ直行し、シャワーを浴びて布団にもぐった。そして、そのまま昨日は布団の上で断続的に寝たり寝なかったりしていた。一週間に一度くらいああいう日がないと、おれは死ぬ。それから深夜、気晴らしに外を散歩した。部屋にいるとき、19歳くらいの頃に大好きだった曲の動画をたまたまユーチューブで見つけたので、それを繰り返し聴きながら歩いていた。

Michael Buble and Blake Shelton - Home - YouTube

ちなみにこの曲。郷愁を誘う、という言葉がぴったりの名曲だと思う。

 

自宅から駅へ向かう途中で、少しだけ祖父母の家に顔を出した。祖母と会って話をすると、何気ないやりとりの中に、いつもどこか寂しげな表情を見せる。けれど、私には何もしてやれない。誰かの寂しさに寄り添いすぎると、自分が幸せになろうとすることにさえ罪悪感を感じてしまいそうになる。多かれ少なかれ、それぞれがそれぞれの寂しさに耐えて生きている。安易に言葉をかけたところで、余計に寂しさを募らせるだけなのではないかと思って、会話しながら、流れをあまりポジティブな方向に導くようなことはしなかった。祖父とは、居間から玄関まで向かうすれ違いざまに、4秒ほど言葉を交わした。顔を合わせて2秒くらいで就職やら結婚やらのことを言い出したので4秒がギリギリだった。でも玄関を出る直前、誕生日おめでとう、と直接伝えられたのは良かった。

 

高速バスに乗り込む。24時までは、地面に座り込んで祖母がくれたおかきを食べながら過ごしていた。バスの中はガラガラだった。けれど、乗車してからというもの財布とメモ帳がバックの中にちゃんと入っているか気になって、なんだかずっとソワソワしている。明日到着したら真っ先に確認しよう。あと、普段そんなことを考えたこともないのに、このバスが事故を起こす確率もゼロではないよなあ、となぜか頭によぎって不安になっている。おそらく心配性の祖母と話をしたからだろう。いつかのニュースで、大学生を乗せた高速バスが横転して悲惨な事故を起こしたことがあった。去り際にしつこいほど、気をつけてね、と祖母に言われたときは、そのときはそのときだね、なんて冗談めかして答えたけれど、いざ一人になるとやはり少しは心細くなる。テレビのニュースなんてしばらく見ていないけど、祖母は毎日見てるのだろう。毎日ニュースばかり見ていたらそりゃあ気分も暗くなるだろうに。せめて祖母も、もう少し外の空気を吸う機会でもあれば、多少は気分も変わるんだろうけど。しかし、私にできることはやはり何もなかった。

 

 

7時3分、東京駅鍛冶橋駐車場に到着。バックを開けると、財布とメモ帳はちゃんといつもの場所にあった。胸をなでおろす。電車に乗って知人宅へ向かう。時間はちょうど通勤ラッシュだ。満員電車に揺られながら、つり革に捕まる背広姿の男女一人一人に目をやる。それぞれの人生に想いを馳せると、自分が生きられなかったあり得たかもしれないもう一つの人生を見るようで、悔しいのか寂しいのか分からない、不思議な気持ちになる。

 

(更新中)